2011年11月05日
地元高校の授業を参観して

今は止めてしまいましたが、小学生を対象に平勝寺で書道を十二、三年教えました。
書道の合い間にサッカーをしたり、レスリングをして遊びました。
皆、明るく元気な子どもたちでした。
その子どもたちが次々と高校生になり、順繰りに卒業していきました。
就職した子、進学した子、それぞれ巣立っていきました。
進んだ道は違っても、その子なりの目標に向かって頑張っていると聞けば、こちらまでうれしくなります。
あと数年、高校生になる教え子がいます。
皆、どんな高校生活を送るのだろう。とても関心があります。
十月中旬、地元高校で或る会議に出席しました。
ちょうど公開授業日でした。見知った子どもたちが受ける授業を私は見たいと思いました。
それで一年生から三年生までの授業をそれぞれ五分程度、参観しました。
最初の教室は三年生に現代文を教えていました。
黒板に「正岡子規」「悟り」「平気」と書かれていました。
生死の境をさまよう病床で子規が「如何なる場合にも平気で生きて居る事」が悟りであると自覚したところを講義されるのでしょう。
つぎの教室は政治経済を教えていました。
黒板に企業の形態が列記されていました。
株式会社と書かれた下に「所有と経営の分離」と先生が板書し、株式会社の特質を説明するところでした。
つぎの教室は古典を教えていました。
項羽と劉邦の名前が書かれ、先生は秦の都、咸陽の説明をしていました。
漢文「鴻門之会」の授業でしょう。
つぎの教室は数学を教えていました。
中心C(a ,b),半径rの円の方程式 (x-a)2+(y-b)2=r2 を書き、どのようにすればこの方程式が導きだされるのかを解説していました。
どの教室でも先生は大きな声ではっきりと熱心に講義されていました。
大人になった私もあらゆる場面で人から教えを受ける機会はあります。
しかし今、参観した教室の先生のように自信に満ち、明確に、そして丁寧に教えを受ける機会はめったにありません。
私の高校時代の先生方もきっと一所懸命教えてくださったに違いありません。
それにもかかわらず、受け取る私がいい加減であったことを恥ずかしく思っています。
人類が蓄積してきた知識を順序立て集中して習うことができるのは学生の特権です。
また、学生時代しかそのような時間を持つことができません。
しかし私がそうであったように学生時代の真っ只中では、その特権を自覚できないようです。
二度と戻らない貴重な時間を過ごし、教えを受ける稀有な機会に出合っているのですが、その大切さに気づかない。
人のことを言う前にこの私が今、与えられた時間に感謝しているか、学ぶことに喜びを感じているか、と反省させられる授業参観でした。
2011年08月17日
「綾渡の夜念仏と盆踊り」生放送
平成23年8月15日、夕方6時半からNHKで生放送するため中継車が待機していました。
今年の練習風景について書きます。
七月に入いると、平勝寺境内地で「綾渡の夜念仏と盆踊り」の練習がおこなわれました。
夜七時半に盆踊りの歌い手が集合します。
教えるのは、四十六年歌い続けている田口栄治さん。
習うのは、まだ会社勤めが忙しい綾渡の中堅六、七名です。
綾渡の盆踊りは、楽器をまったく使いません。音頭取りの歌声だけです。
昔は多くの曲があったそうですが、今は十曲だけ歌います。
教えたり、習ったりする時、難しいのは曲に楽譜がなく、口から口へと伝えなければならないことです。
人それぞれに声の高低があり、音感の違いもあります。
栄治さんはひとりひとりに細かく注意しアドバイスを与えていきます。
ここ数年は地区の古老に歌ってもらい本筋から離れないようにもしています。
八時からは夜念仏の練習です。
男性約二十名が参加します。音頭取りが鉦を三つ鳴らし「光明遍照十方世界」とよく通る声で詠いはじめます。呼吸を合わせ「念仏衆生摂取不捨の光明は」と側の人々が唱和します。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀」暗い境内地に清らかな声がゆっくりと染み渡っていきます。
ふたりいる音頭取りのひとり吉治さんは、いま入院中です。
そのために代役を立て夜念仏が続けられるよう特訓中です。
山門のところで「門開き」が唱えられます。
私が門を開ける仕草をして念仏衆を引き入れます。
その時、私と香炉持ちの人が同時に礼拝するようそのタイミングを練習しています。
八時半からは盆踊りの練習です。念仏衆に女性や子どもが合流して約四十五名で練習をはじめます。
綾渡で生まれ育ったフミエさん、カナエさん、三四子さんが今年つぎのような提案をされました。
「体の向きや扇子の高さが皆少しづつ違っているように思う。私たち三人は年が多くなり昔ほどうまく踊れないが、習ったことを今なら教えることができると思う。皆は基本ができているので、ちょっと直せば揃うと思うよ」と。
皆はこの提案に賛同しました。
今まで、見よう見まねで踊っていたので、はっきり教えてほしいと思っていたからです。
踊りの輪の中心に三人が入って踊りました。
大きな輪で踊っている人たちは、中心の三人の踊り方を見て踊ります。
それぞれ自分が疑問に思っていたところを特に注意しているようです。
私の場合は、今まで気がつかなかった手の位置、足の運び、手拍子の打ち方、顔の向き、扇子の煽ぎ方など習うべきことがいっぱいありました。
例年は毎土曜日に練習をしていました。
今年は豊田市視聴覚ライブラリーの撮影班が保存用のビデオを撮るということもあり、練習に熱が入っています。
木・金・土曜と続けて練習したこともありました。
それぞれが仕事を持っていますので、練習時間を多く取ることは困難です。
しかしこの数年来、綾渡の人々の踊りに対する意識が向上していると私には思えます。
それは綾渡の皆さんと役員の人たちがよきコミュニケーションをはかっているからだと思います。
役員の人たちは独断専行せず、皆さんの意見を汲み上げています。
そればかりではなく、肝心な時にはリーダーシップを発揮し、一定の方向に導いています。
その成果は、きっと綾渡踊りに反映されるでしょう。
人口の少ない地区ですが、皆さんの協力で国の重要無形民俗文化財「綾渡の夜念仏と盆踊り」を守って行きましょう。
それが取りも直さず綾渡が元気でいるみなもとだと思います。
2011年06月30日
平勝寺四世・大覚隆堂大和尚

隣寺の龍宝寺で法要が勤まりました。
法要を終えると龍宝寺さんが一冊の古い本を持って来られました。
倉を整理していて見つけたとのことでした。大正五年に発行された『曹洞宗名鑑』という本でした。
平勝寺と龍宝寺に共通の大覚隆堂大和尚の経歴が分かりませんかと私が以前に質問しました。
龍宝寺さんがそれを覚えておられ、『曹洞宗名鑑』に隆堂さんの経歴が載っているのを見つけ、私に教えてくださいました。
『曹洞宗名鑑』によりますと、平勝寺四世・大覚隆堂大和尚の経歴は以下の通りです。
師は明治三年三月、尾張の東春日井郡阪下村大字神屋に生まれた。
父を弥平といい、母を津儀といった。四男一女あって師はその三男であった。
師が六歳のとき、菩提寺曹洞宗観音寺の梅峰に就いて習字や読書の教授を受けた。
観音寺梅峰について調査すると以下のことが分かった。
この観音寺は現在の春日井市神屋町字上郷一二八にある正受山観音寺のことであり、梅峰とは第六世・洞嶺梅峰大和尚のことであった。
その梅峰の勧めによって師は東加茂郡賀茂村龍宝寺倉地覚忍の弟子となった。
覚忍とは龍宝寺三世・大智覚忍大和尚のことである。
師が九歳のとき明治十二年四月八日、覚忍大和尚によって得度を受け正式な僧侶となった。
そして覚忍大和尚の身辺に侍すること六年、十四歳になったとき岐阜県武儀郡関町香積寺の樺山琢牛の会下に安居した。
翌、明治十八年二月より足助町香積寺の河村鴻川に随身した。
師が十五歳のときである。この鴻川とは、平勝寺法地開山・舟山鴻川大和尚のことである。
翌、明治十九年冬に西加茂郡小原村嶺雲寺の高木賢牛のもとで立職した。
十六歳である。立職とは、首座になることである。
嶺雲寺は小原の大草にあり、賢牛とは、第十九世・牧奘賢牛大和尚のことであった。
十七歳になった明治二十年二月に愛知県第一號曹洞宗専門支校に入学した。
二十歳になったとき永平寺に瑞世し、明治二十四年の冬、平勝寺の住職になった。師は二十一歳だった。
二年ほど平勝寺の住職を勤め、明治二十六年五月に、師匠である大智覚忍大和尚の跡を継いで龍宝寺の住職となった。
その後、大鷲院の小寺黙音(二十一世・豪潮黙音)、香積寺の河村鴻川(第三十一世・舟山鴻川)、養源寺の丘宗潭(安泰寺の開山・大潤宗潭)に師事して親しく鉗鎚を受けた。
明治四十四年以降、すなわち四十一歳以降は大本山布教師を命ぜられ各地を巡教した。
平勝寺の位牌によると、大正七年八月十七日に遷化せられた。
以上のことが分かりました。
2011年05月10日
旧暦四月の降誕会
四月八日はお釈迦さまの誕生日です。
平勝寺では旧暦でお祝いしていますので、今日、五月十日が降誕会です。
今朝、大門に花御堂の花を摘みに行き、飾りました。
今から約二千五百年前、摩耶夫人は出産のため実家に戻る旅にでました。
その途中、ルンビニー園で急に産気づき、お釈迦さまを産みました。
花御堂はルンビニーの花園をかたどったものです。
花で飾った小さなお堂の中央に水盤を置き、お釈迦さまの誕生したときの姿(右手で天を指差し、左手で地を指差している)に似せた仏像を安置します。
その誕生佛に甘茶をそそいでお参りします。
甘茶をそそぐのは、お釈迦さまが生まれたとき、九頭の龍が天から香ばしい水を吐いて、お釈迦さまに産湯を使わせたという伝説に基づいています。
この甘茶を飲めばマムシに咬まれないとか、甘茶で墨をすり字を書けば書道が上達すると言われています。
伊藤さんがお参りに来てくださいました。
2011年01月10日
辻晋堂展・生誕100年
生誕100年 彫刻家・辻晋堂展
2011年1月29日(土)~3月27日(日)
神奈川県立近代美術館・鎌倉(The Museum of Modern Art, Kamakura )
辻晋堂さんと平勝寺先住・小川昇堂さんの関係を以前にこのブログに掲載しました。
神奈川県立近代美術館の山田さんがその記事を見てくださいました。
そして辻晋堂展の開催をお知らせくださいました。

私は辻晋堂さんの本物の作品をほとんど見たことがありません。
綾渡のお檀家さんに残されている小品・柿本人麻呂や小川家に残されている小品を見ただけです。
現・京都市立芸術大学の教授に赴任後(1949年)の抽象的な陶彫に取り組んだ作品集を本で見たことはあります。
「寒山」という作品は非常に印象的でした。

よい機会です。
時間の都合をつけて、鎌倉まで行こうと思っています。
皆さんも、よろしかったら行ってください。
2011年1月29日(土)~3月27日(日)
神奈川県立近代美術館・鎌倉(The Museum of Modern Art, Kamakura )
辻晋堂さんと平勝寺先住・小川昇堂さんの関係を以前にこのブログに掲載しました。
神奈川県立近代美術館の山田さんがその記事を見てくださいました。
そして辻晋堂展の開催をお知らせくださいました。
私は辻晋堂さんの本物の作品をほとんど見たことがありません。
綾渡のお檀家さんに残されている小品・柿本人麻呂や小川家に残されている小品を見ただけです。
現・京都市立芸術大学の教授に赴任後(1949年)の抽象的な陶彫に取り組んだ作品集を本で見たことはあります。
「寒山」という作品は非常に印象的でした。

よい機会です。
時間の都合をつけて、鎌倉まで行こうと思っています。
皆さんも、よろしかったら行ってください。
2010年11月16日
2010年11月02日
竹林の七賢

今から約千七百年前、晋という王朝が中国を統一しました。
晋によって統一される前は、魏・呉・蜀という三つの国が並び立っていました。
曹操・孫権・劉備らが争った三国志の時代です。
魏は三国の中で最も高い国力と軍事力を持っていました。
魏の第三代皇帝の後見人になった司馬氏は、すべての手段を使って魏の実権を握ってしまいました。
それ以後、魏は司馬氏の傀儡政権となりました。
そして第五代皇帝のとき司馬氏に皇帝の地位を譲り、魏は滅亡しました。
司馬氏は晋を立てました。強い軍事力を譲り受けた晋は呉を滅ぼしました。
蜀はそれ以前に既に滅んでいました。
このようにして晋は三国を統一しました。
その晋も後継者が暗愚であったため、皇族同士による争いが続き国内は荒廃しました。
国が乱れると人の心も乱れてしまいます。
自分の利益を守るために、自分に反対する者を殺す者が多く現れました。
その者たちは自分の行動を正当化するためにあらゆる理由づけをしました。
また、官吏登用法を悪用して賄賂を受け取る役人も現れました。
当時、隅々まで行き渡っていた儒家思想は祭祀を重視していました。
祖先や天を祀ることによって、祖先や天が司ると思われていた自然や偶然の出来事を意のままにしようとしました。
思想が形骸化すればするほど、祀り方が複雑になっていきました。
そして複雑な祀り方を覚えている者が幅を利かすようになりました。
そのような社会は、想像するだけでも息苦しさを感じます。
煩わしい決まりの拘束から解放されたいと願う人びとが現れました。
晋の時代で言えば阮籍に代表される人々です。
へつらい、ねたみ、足を引っ張り合うような世間のありように彼らは反感を持ちました。
発した一言が命取りになるような権力を巡る醜さにも反感を持ちました。
官僚生活における汚さにも反感を持ちました。
阮籍は、とりわけ礼法を重んずる儒家をきらいました。
阮籍の母が亡くなったとき、儒家が弔問に来ました。
阮籍は彼を白眼視しました。
葬儀ではまず主人が哭してから客が哭泣の礼を取るのがしきたりであったのです。
阮籍はそのような形式だけの礼法を毛嫌いしました。
阮籍ほど徹底できないこの私は世の習慣に普通程度に従っています。
しかし、息苦しさを感じているのも事実です。
理由を付けなければ行動できない社会。
保身のための言い訳を言い続ける社会。
自分の氏名、住所を隠して他者を非難する社会。
意のままに自然や生命を操ろうとする社会。
そのように自分の思いを先とするような社会より、もう少し譲り合える社会を私は望んでいます。
小賢しい頭で作りごとをすれば自他ともに身動きがとれなくなるのではないでしょうか。
よいと思ったことがすぐに実行でき、間違ったら謝れる人になりたい。
そして誤りを許しあう寛容な社会になってほしい。
複雑な問題を抱える今の社会では、こんな考えは虫がよすぎるでしょうか。
2010年10月14日
サツマイモの収穫
今年も大量のサツマイモが収穫できました。
太陽と大地と雨風のおかげです。
それにも増してフミエさんがイノシシからサツマイモを守り続けてくださったおかげです。
サツマイモ畑の周りをイノシシが何度も徘徊していたそうです。
家内がさっそく「鬼まんじゅう」を作り、お世話になった人たちに配りました。
2010年09月30日
椿立カルチャー教室
来る十月七日(木)午後一時から椿の里で写経をします。
今、写経の仕方の説明資料を準備したところです。
この「椿立カルチャ教室」は前区長・原田鋭美さんが発案しました。今年の二月からはじまりました。
私たち椿立地域の人びとが自分の得意分野を気楽に教え、同じ地域の人たちが家庭的な雰囲気のもとで楽しく習えることを眼目にしています。いろいろなことを勉強して心豊かに暮らし、椿立に住んでよかったと思える地域にしたいと原田前区長が考えました。
講師の依頼、受講者の募集等は、寄田種子さん、藤澤時子さん、小野君子さん、原田恵子さんがお世話をしてくださっています。
現在、椿立地区は五十七世帯です。綾渡が28軒、大蔵連が3軒、山谷が12軒、椿立が3軒、室口が6軒、漆畑が5軒で合計五十七軒です。この地区には専門知識や専門技術を持った人がたくさんみえます。また、林業・農業・昔の暮らし方に精通した人もたくさんみえます。そのような人が講師になって「椿立カルチャ教室」がはじまりました。二月から八月までどのような教室がひらかれたかを挙げてみます。
二月「わら草履づくり」 講師:小野君子、筒井富美子
わらの代わりにカラフルな布切れを使いました。大小さまざまな布草履ができて大爆笑。
三月「日本映画の発生と黒澤映画について」 講師:都築政昭
参加者全員に都築先生の新刊本『黒澤明 全作品と全生涯』が無料で配られました。
四月「絵手紙」 講師:宇津木隆
絵手紙用の葉書に各自が書きたい絵を描き、自分の言葉を添えました。
五月「銭太鼓」 講師:内藤フミエ
フミエさんが出雲地方で習ってきたもの。練習を積んだ女性たちが秋のお祭りに演技を披露します。
六月「カゴ作り」 講師:黒柳喜美子、大竹豊美
綾渡の藤澤キヨコさんと藤澤ヨネさんがカゴ作りの元祖。梱包用のビニールテープで作りました。
七月「書道」 講師:原田恵子
読売書法展七回入選の恵子さんが講師。恵子さんのお手本を参考に、太筆で色紙に書きました。
八月「お話であそびましょう」 講師:佐藤かつ子、藤村純子
昔ばなしを聞いたのち、「おむすびころりん」を皆で群読しました。
九月「フェルト」 講師:小川今日子
フェルト作家の今日子さんが講師。染色した毛でフェルト玉を作り、ストラップに仕上げました。
そして十月は私が写経用紙などを用意して皆さんといっしょに写経します。
釈尊在世のときは、写経ということはありませんでした。釈尊が言われたことを耳で聞き、頭で覚えて、口で伝えていたからです。
紀元前後にインド各地で大乗仏教が興り、多くの経典が出来ました。その経典を広めるために書き写すことが勧められました。中国ではインドの言葉から中国語に翻訳する事業が国家の仕事としておこなわれました。それとともに写経も膨大な量、おこなわれました。シルクロード沿いの古代都市や敦煌から古い時代の写経が発掘されています。
日本では奈良時代、官費を支給して写経所で写経しました。現代ではコピー技術が発達しましたので、お経そのものを伝えるために写経する必要はなくなりました。しかし静かな時間を持ち、自己の修養を積むためには、写経が最適と思われます。
2010年07月18日
岩瀬文庫
平成22年(2010)7月16日、愛知大学の松尾先生たちとともに岩瀬文庫へ行ってきました。
岩瀬文庫は西尾市にあります。
古典籍から近代の図書まで、その蔵書数は8万点余にのぼります。
西尾の豪商・岩瀬弥助が私財を投じ、明治41年に設立しました。
鈴木正三の『二人比丘尼』『念仏草子』『因果物語』『麓草分』『盲安杖』『破吉利支丹』『海上物語』を閲覧しました。
それと島原の乱の戦闘配置が書かれた絵図を親しく閲覧しました。
また長円寺本『正法眼蔵随聞記』のコピーを閲覧しました。
長円寺13世、万仭道坦大和尚についても、いろいろ調べました。
学芸員の方と名刺を交換しましたので、今後、貴重な資料を見せていただけると思います。
仏教美術専門の学芸員さんに名刺を渡したところ「聖観音菩薩坐像の平勝寺さんですか」と言われました。
平勝寺の観音さまを益々、大切にお守りしていかなければならないと自覚しました。
2010年05月03日
咲くべき今にただ咲いている
四月五日は二十四節気のひとつ清明の日でした。
この日を中国では清明節と呼び、人びとは先祖の墓参りをします。
中国において現在、清明節当日は法定祝日になっています。
それで今年は四月三日の土曜日から五日まで三連休でした。
多くの人がピクニック(踏青)を兼ねて郊外へ墓参りに行きます。
その結果、大渋滞が発生したとニュースで伝えていました。
私たち日本人は清明に墓参りをする習慣はありません。
清明の直前の節気すなわち春分のときに春彼岸として墓参りをします。
墓参りの習慣は違いますが、清明という名にふさわしい季節は中国でも日本でも同じです。
平勝寺周辺では、四月初旬に桜が満開になり、レンギョウやユキヤナギが咲きました。
池の鯉はゆったりと泳ぎだしました。
天地は明るく、清らかです。
私は清明という言葉自体が大好きです。
宋代に書かれた『歳時広記』に「清明とは、もの清浄明潔に生ずるをいう」とあります。
そして『歳時百問』ではそれを解釈して「万物生長のとき、みな清潔にして明浄なり。故にこれを清明という」とあります。
実際、芽ぐんだ小さな葉の清潔さはこのうえもありません。
この時期、それぞれの草木はそれぞれの花を咲かせています。
レンギョウは黄色い花を、ユキヤナギは白い花を咲かせています。
私にとってこれら花の姿ほど清らかに見えるものはありません。
私の日常はこの花々の清らかさから程遠いものです。
なぜ程遠くなるのでしょう。
今、私がなすべきことを黙々となしていないからです。
ひとつの行為をなすと自らその成果を求め、他にもその成果を認めてもらいたいという心が動きます。
他から評価されないと自信を喪失し、なした行為すら悔やんでしまいます。
逆に他から思わぬ賞賛を受けたときには、私にそぐわないと思いつつも有頂天になってしまいます。
このようにひとつの行為をそのものとして完結させず、常に他と兼ね合い、くらべながらなしています。
私にひきかえ花々は一切、他との兼ね合いをしていません。
レンギョウは「白い花を咲かせたい」とユキヤナギを羨んでいません。
ただレンギョウの黄色い花を精一杯咲かせているだけです。
「こんなに綺麗に咲いてるよ、見て見て」と結果の見返りを期待していません。
誰が見ていようが見ていまいが、咲くべき今にただ咲いているだけです。
このように他との兼ね合いをしない清らかさと清明の明るさは同質のものと思います。
中国ではくもりのない澄みきった鏡を明鏡といいます。
明鏡はものの姿をはっきり写しますが、写した跡を留めでいません。
初夏に向かってレンギョウが花を散らす時、レンギョウは精一杯花を散らすだけで盛時の跡を留めていません。
清らかさと明るさを合わせもつこの清明の季節に、私は花々が発する「清新の気」を私に移したいと願っています。
(矢作新報に掲載したものを加筆訂正)
2010年02月28日
折田先生像と辻晋堂
平勝寺先住の小川昇堂さんと辻晋堂さんの関係を先回述べました。
今回は折田先生像と辻晋堂さんの関係を述べます。
と言いますのも毎年いまごろ、
京都大学の二次試験がはじまる頃、
折田先生像が落書きされ、受験生の注目をあびるからです。
といっても今では本物の折田先生像はその場にないので、
折田先生像と称して、張りぼてのキャラクターを誰かが作って設置しているのです。
今年は「ポケットモンスター」シリーズの「タケシ」だそうです。
私は「タケシ」を知りません。それは、どうでもよいことですが。
折田先生とは、折田彦市のことで、京大の前身である第三高等学校の初代校長を勤めた人です。
三高の自由な学風を築いたと言われています。
折田先生の業績をたたえて作られた銅像が折田先生像です。
二十五年ほど前からその銅像に落書きがなされ、徐々にその行為がエスカレートしていきました。
それで今では銅像と台座を総合人間学部図書館の地下書庫に収納したそうです。
収納されたその銅像こそ、昭和二十五年に辻晋堂さんが制作したものです。
いろいろな関係があるものですね。
辻晋堂さんには『泥古庵雑記』という著作もあります。
今回は折田先生像と辻晋堂さんの関係を述べます。
と言いますのも毎年いまごろ、
京都大学の二次試験がはじまる頃、
折田先生像が落書きされ、受験生の注目をあびるからです。
といっても今では本物の折田先生像はその場にないので、
折田先生像と称して、張りぼてのキャラクターを誰かが作って設置しているのです。
今年は「ポケットモンスター」シリーズの「タケシ」だそうです。
私は「タケシ」を知りません。それは、どうでもよいことですが。
折田先生とは、折田彦市のことで、京大の前身である第三高等学校の初代校長を勤めた人です。
三高の自由な学風を築いたと言われています。
折田先生の業績をたたえて作られた銅像が折田先生像です。
二十五年ほど前からその銅像に落書きがなされ、徐々にその行為がエスカレートしていきました。
それで今では銅像と台座を総合人間学部図書館の地下書庫に収納したそうです。
収納されたその銅像こそ、昭和二十五年に辻晋堂さんが制作したものです。
いろいろな関係があるものですね。
辻晋堂さんには『泥古庵雑記』という著作もあります。
2010年02月11日
先住 大寰昇堂大和尚
位牌を本堂正面に据え、ろうそくに火をともしました。
ちょうどそのとき、毎朝お参りにみえる伊藤さんが正面の戸を開けました。
「おっさん、今日は誰のお参り?」
「昇堂さんの命日」
「そうそう、昇堂さんが亡くなったのは紀元節の日だったなあ」
「昇堂さんは86で亡くなったが、おばさんは元気でいいね」
「5月が来ると97歳になる」
「毎日、お参りに来てね」と挨拶をして祥月命日のお経をあげかけました。
大寰昇堂大和尚、小川昇堂さんは昭和61年2月11日に亡くなられました。
私は昭和63年の夏から、ここ平勝寺の住職になったので実際の昇堂さんには会っていません。
綾渡の人たちから話を聞くばかりです。
それと昇堂さんが残した歌集『経嶺集』から当時のことを想像しています。
歌集「経嶺集」は昭和54年6月20日に発行されました。
早川幾忠氏が序を寄せています。
早川幾忠という人は「東京出身の歌人で、松倉米吉等と行路詩社結成、金子薫園に入門し「光」の編集同人となる。「高嶺」創刊主宰。歌集に『紫塵集』等。昭和58年(1983)歿、86才。」と検索したら出ていました。
装丁挿画は辻晋堂氏です。
辻晋堂さんは昇堂さんの親戚です。
鳥取県伯耆町出身の彫刻家で、戦後、京都に移り京都芸術大学の教授となりました。
平勝寺の観音さまの指をなおしてくださったことがあります。
早川氏も辻氏もともに昇堂さんのことを「小さくて痩せていて気の強い」老僧だったと言っています。
また辻氏は「和尚の風貌は、良寛の画像に似たところもあり、平勝寺に於ける和尚の生活は、五合庵の良寛を想わせるところがあるのである。」と述べています。
大寰昇堂大和尚を偲んで、歌集『経嶺集』から一首。
「薪作務も雪作務もなきわが寺の行粥はわが腹に丁度よし 昇堂」
2010年01月26日
死への心構え
小正月が明けぬうちに知人が事故で亡くなった。
明日のいのちは誰にも分からない。
そんな危ういいのちを私たちは生きている。
そうであるなら、いつ死が訪れてもよい覚悟が私にできているだろうか。
できてはいない。
私は死を恐れている。
なぜ死を恐れているのか。私の人生が今まで比較的平穏に過ぎてきたからかもしれない。
少ないとはいえ、私を理解してくれる人がいる。
私が死ぬということは、その人たちと永遠に別れなければならないことを意味している。
また逆に私にとって大切な人たちの死は、私との交流を永遠に閉ざしてしまう。
それを私は恐れているのだろう。
日常の私は、生と死を正反対のものだと無自覚に思っている。
だから生きていさえすれば、交流は途絶えないと勝手に思い込んでいる。
しかし、現に生きているこの世界は私の思い通りにならない。
死によって隔てられなくても交流できないことばかりである。
よかれと思って発した言葉によって相手を傷つけることがある。
逆に、正しいアドヴァイスを受けても心がかたくななときには、私はそれをはねつけてしまう。
このように思い通りにならない生であっても、死よりましだと思っている私がいる。
それほどまで絶やしたくないと思っているのは、私の何を絶やしたくないのか。
生まれてから徐々に身につけた技能や知識だろうか。
いや違う。それはいつか使い物にならないことが明らかである。
では私が所有している物質的なものだろうか。
いや違う。それは手放し難いが、いつか失うことが分かっている。
それならば素っ裸になったこの肉体だろうか。
いや違う。幼時期の肉体が今どこにもないのに不安を感じていない。
それでは、一体何を絶やしたくないと恐れているのか。
私の頭のなかで記憶され時間列に沿って持続されてきたものを絶やしたくないと私は恐れている。
変わりづめに変わっているのにもかかわらず、幼時期から現在まで持続していると思い込んでいるその思いとの決別を恐れているとしか言いようがない。
心配や悲しみ、苦しみや葛藤は確かにあった。
しかし悲しみを乗り越えた安らかさを知った。
苦しみが去った穏やかさも経験した。
そのような記憶を通して不安定な日常の中に安定を求めてきた。
その安定をこれから先にも持続したいと執着しているそのこと自体が死への覚悟をにぶらせている。
記憶や安定に重きを置かず、いま出会っていることにまっすぐ出会う。
この稽古こそがいのちを輝かせることであり、私にとって死への心構えである。
(2010年1月22日(金) 矢作新報 リレー・エッセー202 掲載)
明日のいのちは誰にも分からない。
そんな危ういいのちを私たちは生きている。
そうであるなら、いつ死が訪れてもよい覚悟が私にできているだろうか。
できてはいない。
私は死を恐れている。
なぜ死を恐れているのか。私の人生が今まで比較的平穏に過ぎてきたからかもしれない。
少ないとはいえ、私を理解してくれる人がいる。
私が死ぬということは、その人たちと永遠に別れなければならないことを意味している。
また逆に私にとって大切な人たちの死は、私との交流を永遠に閉ざしてしまう。
それを私は恐れているのだろう。
日常の私は、生と死を正反対のものだと無自覚に思っている。
だから生きていさえすれば、交流は途絶えないと勝手に思い込んでいる。
しかし、現に生きているこの世界は私の思い通りにならない。
死によって隔てられなくても交流できないことばかりである。
よかれと思って発した言葉によって相手を傷つけることがある。
逆に、正しいアドヴァイスを受けても心がかたくななときには、私はそれをはねつけてしまう。
このように思い通りにならない生であっても、死よりましだと思っている私がいる。
それほどまで絶やしたくないと思っているのは、私の何を絶やしたくないのか。
生まれてから徐々に身につけた技能や知識だろうか。
いや違う。それはいつか使い物にならないことが明らかである。
では私が所有している物質的なものだろうか。
いや違う。それは手放し難いが、いつか失うことが分かっている。
それならば素っ裸になったこの肉体だろうか。
いや違う。幼時期の肉体が今どこにもないのに不安を感じていない。
それでは、一体何を絶やしたくないと恐れているのか。
私の頭のなかで記憶され時間列に沿って持続されてきたものを絶やしたくないと私は恐れている。
変わりづめに変わっているのにもかかわらず、幼時期から現在まで持続していると思い込んでいるその思いとの決別を恐れているとしか言いようがない。
心配や悲しみ、苦しみや葛藤は確かにあった。
しかし悲しみを乗り越えた安らかさを知った。
苦しみが去った穏やかさも経験した。
そのような記憶を通して不安定な日常の中に安定を求めてきた。
その安定をこれから先にも持続したいと執着しているそのこと自体が死への覚悟をにぶらせている。
記憶や安定に重きを置かず、いま出会っていることにまっすぐ出会う。
この稽古こそがいのちを輝かせることであり、私にとって死への心構えである。
(2010年1月22日(金) 矢作新報 リレー・エッセー202 掲載)
2009年11月29日
満映映画が視聴可能に
今まで知られていなかったものが初めて見つけ出されることがあります。
例えば先々月、中国のジュラ紀後期(約一億六千万年前)の地層から、長い風切り羽を持つ小型肉食恐竜の化石が見つかりました。
また、行方不明になっていたものが見つかることもあります。
例えば昭和初期から行方がわからなかった「大澤本・源氏物語」が八十年ぶりに見つかりました。
このようなニュースを聞くと私はわくわくします。
私たちの持っている先入観や固定概念が、発見された事実によって壊されるからです。
今、私が一番興味を持っているのは満洲映画協会(満映)が製作した映画です。
戦前・戦中の人たちにとって満映の映画は見なれたものかもしれません。
しかし、戦後生まれの私は見たことがなかったのです。
正確に言えば見ることができませんでした。
なぜなら満映のフィルムが行方不明になっていたからです。
満洲国の国策会社であった満映が作った映画は約千本ありました。
その大量のフィルムが消えたのです。
中国や日本のどこかに眠っているかもしれません。
敗戦時に焼却されたかもしれません。
ところが一九八五年のペレストロイカ(再構築改革)によってソ連が崩壊し、満映フィルムが旧ソ連にあることが判明しました。
ロシア国立映像資料館がモスクワ郊外にあります。
満映フィルムはそこに秘蔵されていました。
十五年ほど前、日本のテンシャープという会社が満映フィルムをすべて買い付けようとロシア資料館と交渉しました。
しかし原板フィルムはロシアの法律で国外持ち出し禁止だったのでビデオ化して持ち帰ったのです。
このような経緯で今、見ることができるフィルムは約百三十本、三十時間分です。
そのうち私は三十三本の映画を見ました。
それらの映画を見ることによって今まで持っていた先入観が壊れていきました。
一般に映画は娯楽であると思われています。
しかし、映画には大きな教育力が秘められています。
それだから、映画の製作や上映が国家の統制下におかれた時、映画の果たす役割が大きく変化します。
戦時下の映画は社会の矛盾から国民の目をそらし、国家に協力させる気持ちを国民に植えつけていました。
当時、勇ましい気分に酔って映画館を出た観客が後日「権力者やメディアに操られた」と言い訳したとしても、今を生きる私に同じ言い訳は通用しません。
新たに発見された満映フィルムをはっきり見ることによって、操られる社会構造、流される社会構造を明らかにし、再び日本が戦争を起こさないようにすることが今に生きる者の責任であると思います。

上は満映作品のロゴです。
満映の時事映画は、はじめは製作本数が少なく、「満映ニュース」と呼んでいました。
一九四○年以降はスタッフが充実したので毎月三号づつ製作されたようです。
満映の時事映画には「満映通信」(日本語)と「満映時報」(中国語)があります。
こども用の「こども満洲」や「協和満映時事報」もありました。
私が見た「協和満映時事報」は無声映画でしたが、中国文の字幕が出ていました。
題材は満洲国の主な政治活動、皇帝の行事、観光、開拓の様子、祭り、学校の様子、産業、衛生などです。中でも日本の軍隊と満洲風景の紹介が突出していました。
2009年11月07日
ゆずが実った
我が家のゆずが今年、はじめて実りました。
どなたにいただいたか忘れたくらい前に植えました。
でも、小さな苗木のときに寒冷紗を掛けたことを覚えています。
桃栗三年、柿八年、柚の大馬鹿十八年と言います。
ことが成就するには、それなりの時間がかかるものだと思います。
2009年09月26日
聞く耳が持てない
参不得(聞く耳が持てない)
光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし。
師はあれどもわれ参不得なるうらみあり、参ぜんとするに師不得なるかなしみあり。
かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。
これは正法眼蔵行持の巻の上巻、末尾に出ていることばです。
『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は、私たち曹洞宗の開祖・道元禅師が著された書物です。
道元禅師は一二二三年、二十四歳のとき栄西禅師の弟子・明全とともに博多から宋に渡りました。
十日あまりの航海ののち、道元禅師を乗せた船は現在の浙江省に着きました。
ところが、入国の手続きがうまく行かず道元禅師は三か月間、船上にとどまりました。
かえってそれが幸いとなりました。
『典座教訓(てんぞきょうくん)』に道元禅師自身が書きとめておられますが、阿育王山の老典座和尚と出会ったのです。
阿育王山の老典座とは修行僧の食事をつかさどる役職の老僧です。
道元禅師が乗っていた船に日本の椎茸を買いに来たのです。
「あなたほどの方が何故、煩わしい食事係などされているのですか。坐禅をしたり、お経の研究などをされたほうがよいのではないですか」と道元禅師が老僧に質問しました。
老典座は慈しみをもって答えました。
「お若い外国の客人よ、惜しいことにあなたは未だ修行のなんたるかがわかっておられない。文字のなんたるかもおわかりでないようですね」と。
後日談があるのですが、ともかくその場で道元禅師は冷や汗をかかれました。
入国手続きが済み、宋の国に上陸した道元禅師は天童山景徳寺に赴いて無際了派禅師に参じ、足かけ二年の修行をしました。
無際了派禅師から、悟りを得た証である印可証明を授けましょうと言われましたが、道元禅師は自分の修行はまだまだこれからですと辞退されました。
そして遍歴の旅にでました。
広利寺や万年寺など五山十刹を遍歴したのですが、正師にめぐり会えず失望しました。
失意のなか、もう日本へ帰ろうと考えていましたが、如浄禅師が天童山の住職になられたと聞き、再び天童山へ向かいました。
如浄禅師に出会った瞬間に、この方こそ求めてやまなかった正師であることを直感し、天童山で大修行をしました。
その後、如浄禅師の法を継ぎ二十八歳のとき帰国しました。
ともに宋に渡った明全は景徳寺で病に倒れ亡くなっていました。
道元禅師は明全の遺骨を胸に抱いて肥後の河尻に帰ってきました。
日本に帰った道元禅師は建仁寺に身を寄せましたが、比叡山からの迫害を受け、山城深草の安養院に移り住みました。
そこで『正法眼蔵』の第一巻となる「弁道話」を著しました。
道元禅師三十一歳のときです。
建長五年(一二五三)一月、道元禅師は病床で『正法眼蔵』最後の巻となる「八大人覚」を著しました。このように道元禅師は生涯をかけて「弁道話」から「八大人覚」まで八十七巻に及ぶ大著を著しました。
その『正法眼蔵』行持の巻に表題のことばがあります。
光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし(時の経つのは矢よりも速く、いのちは露よりも脆く失われやすいものである。)
師はあれどもわれ参不得なるうらみあり(師匠はいるけれども、私が師匠の説示を受け止められない残念さがある。師匠は丁寧に説法してくださっているのに、私にそれを見聞きする眼や耳がそなわっておらず、的外れな理解をしている)
参ぜんとするに師不得なるかなしみあり。かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり(またやっと師匠の説法を見聞きできる眼や耳がそなわって来たときには、師匠がいなくなってしまう。このようなことは、目の前で起きていることである)
六十を過ぎたわたしには、時間の大切さと師匠(よき生き方を導いてくださるあらゆる人びと)の有難さをひしひしと感じます。
光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし。
師はあれどもわれ参不得なるうらみあり、参ぜんとするに師不得なるかなしみあり。
かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。
これは正法眼蔵行持の巻の上巻、末尾に出ていることばです。
『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は、私たち曹洞宗の開祖・道元禅師が著された書物です。
道元禅師は一二二三年、二十四歳のとき栄西禅師の弟子・明全とともに博多から宋に渡りました。
十日あまりの航海ののち、道元禅師を乗せた船は現在の浙江省に着きました。
ところが、入国の手続きがうまく行かず道元禅師は三か月間、船上にとどまりました。
かえってそれが幸いとなりました。
『典座教訓(てんぞきょうくん)』に道元禅師自身が書きとめておられますが、阿育王山の老典座和尚と出会ったのです。
阿育王山の老典座とは修行僧の食事をつかさどる役職の老僧です。
道元禅師が乗っていた船に日本の椎茸を買いに来たのです。
「あなたほどの方が何故、煩わしい食事係などされているのですか。坐禅をしたり、お経の研究などをされたほうがよいのではないですか」と道元禅師が老僧に質問しました。
老典座は慈しみをもって答えました。
「お若い外国の客人よ、惜しいことにあなたは未だ修行のなんたるかがわかっておられない。文字のなんたるかもおわかりでないようですね」と。
後日談があるのですが、ともかくその場で道元禅師は冷や汗をかかれました。
入国手続きが済み、宋の国に上陸した道元禅師は天童山景徳寺に赴いて無際了派禅師に参じ、足かけ二年の修行をしました。
無際了派禅師から、悟りを得た証である印可証明を授けましょうと言われましたが、道元禅師は自分の修行はまだまだこれからですと辞退されました。
そして遍歴の旅にでました。
広利寺や万年寺など五山十刹を遍歴したのですが、正師にめぐり会えず失望しました。
失意のなか、もう日本へ帰ろうと考えていましたが、如浄禅師が天童山の住職になられたと聞き、再び天童山へ向かいました。
如浄禅師に出会った瞬間に、この方こそ求めてやまなかった正師であることを直感し、天童山で大修行をしました。
その後、如浄禅師の法を継ぎ二十八歳のとき帰国しました。
ともに宋に渡った明全は景徳寺で病に倒れ亡くなっていました。
道元禅師は明全の遺骨を胸に抱いて肥後の河尻に帰ってきました。
日本に帰った道元禅師は建仁寺に身を寄せましたが、比叡山からの迫害を受け、山城深草の安養院に移り住みました。
そこで『正法眼蔵』の第一巻となる「弁道話」を著しました。
道元禅師三十一歳のときです。
建長五年(一二五三)一月、道元禅師は病床で『正法眼蔵』最後の巻となる「八大人覚」を著しました。このように道元禅師は生涯をかけて「弁道話」から「八大人覚」まで八十七巻に及ぶ大著を著しました。
その『正法眼蔵』行持の巻に表題のことばがあります。
光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし(時の経つのは矢よりも速く、いのちは露よりも脆く失われやすいものである。)
師はあれどもわれ参不得なるうらみあり(師匠はいるけれども、私が師匠の説示を受け止められない残念さがある。師匠は丁寧に説法してくださっているのに、私にそれを見聞きする眼や耳がそなわっておらず、的外れな理解をしている)
参ぜんとするに師不得なるかなしみあり。かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり(またやっと師匠の説法を見聞きできる眼や耳がそなわって来たときには、師匠がいなくなってしまう。このようなことは、目の前で起きていることである)
六十を過ぎたわたしには、時間の大切さと師匠(よき生き方を導いてくださるあらゆる人びと)の有難さをひしひしと感じます。
2009年08月25日
澤木老師のことば
(この写真は『澤木興道老師のことば』櫛谷宗則編 大法輪閣 発行より)
七月中旬、櫛谷宗則さんが本を一冊くださいました。
「澤木興道老師のことば」という本です。
宗則さんは私の先輩で、すでに何冊も澤木老師について本を出版されています。
今回、出されたその本は百ページほどの小冊子ですが、澤木老師の珠玉のことばが詰まっていました。
澤木老師は私の法曾祖父、すなわち「ひいおじいさん師匠」です。
澤木老師、内山老師のことばのひとことひとことが私の生きる指針であり、お守りです。
澤木老師は明治十三年(一八八○)三重県津市に多田惣太郎の六番目の子として生まれました。
四歳で母を亡くし、七歳で父を亡くしました。
その後、澤木家の養子になりましたが、十七歳のとき出家を志し永平寺へ行きました。
十八歳のとき得度を受けました。
二十一歳の終わり兵役につくまで西有穆山禅師の高弟、笛岡凌雲方丈に随身しました。
日露戦争に従軍して負傷しました。
除隊後、大和法隆寺勧学院の佐伯定胤僧正について唯識教学を学びました。
大正元年(三十三歳)、ほぼ仏教教学の概要を学びおえた老師は、勧学院を出て丘宗潭老師の会に参じるようになりました。
その後、駒澤大学教授・総持寺後堂など受けたすべての配役を用いて皆に只管打坐を勧めました。
続けておられた全国巡錫を昭和三十八年に止め、京都の安泰寺で後進の指導に当たられました。
昭和四十年十二月二十一日、安泰寺の弟子たちに見守られるなか八十六歳で遷化されました。
澤木老師が遷化されると内山老師がそのあとを継がれました。
昭和四十年から昭和五十年までの十年間、内山老師は安泰寺住職として坐禅指導されました。
私が安泰寺に行ったとき内山老師はすでに引退され一年が過ぎていました。
私は内山老師のあとを継がれた渡部老師の弟子になりました。
私は渡部老師のもとで十年半修行し、ここ平勝寺へ来ました。
今回、宗則さんが編集された澤木老師の最初のことばはつぎの通りです。
「おのれを抜きにすれば、人生すべてのことで解決しない問題はない」
深くこころに刻むべきことばだと思います。
私の日常はほとんど自己弁護と他者依存に終始していますので、このことばによって自戒しなければなりません。
先回、鈴木正三のことばを紹介しました。
正三は苦悩の原因を「我が身がかわいいと思う念」であると看破しました。
我が身かわいさからあらゆる問題を引き起こしていると言ってもよいと思います。
澤木老師の「おのれを抜きにすれば、すべての問題は解決する」のことばと鈴木正三のことばを私は同じ意味に受け取っています。
私はお守りを持っています。お守りを持っていれば災難や苦しみに出会わないという訳ではありません。私が出会う災難も苦しみもそれら一切が私のいのちの糧となって、また歩んで行こうという力を与えてくださるのがお守りです。
その意味で私にとって澤木老師のことばはお守りです。
さきほど澤木老師は十八歳のとき得度を受けて雲水になったと書きました。
どこで得度を受けたと思いますか。
九州天草の宗心寺です。
宗心寺の沢田興法和尚について得度したのです。
澤木老師は天草で鈴木正三のことを知っておられました。
私は正三研究旅行で天草へ行ったとき宗心寺へ寄ってきました。
いろんなご縁があるものです。
2009年07月27日
郷土の偉人・鈴木正三
矢作新報 2009年7月24日 一道のリレー・エッセー掲載分
戦国の世も終わろうとする天正七年(一五七九)、鈴木正三は三河国足助庄則定で生まれた。いまの豊田市則定町である。
正三は、則定城主・鈴木忠兵衛重次の長男として、三河武士の血を受けて誕生した。
天正十八年、父の重次は徳川家康に従って関東に移った。正三も従った。十二歳のときである。
慶長五年(一六○○)関ヶ原の戦いが起きると、正三は徳川秀忠軍に属し、信州真田の戦いに加わった。
それが正三の初陣である。
その後、大坂冬の陣、夏の陣に従軍し旗本の一員となった。
徳川秀忠に仕えて大番に列せられたが、四十二歳のとき武士の身分を捨てて出家した。
はじめ畿内で修行したが、三河に帰り山中の石ノ平で荒行をした。
慶安元年(一六四八)多くの人びとの要請に応え江戸に出向いて唱導した。
正三の弟子はもとより、各層の人びとが正三に教えを請うた。
正三はいつも相手の立場に立って助言した。
正三のそれら言行を弟子である恵中が記録し、『驢鞍橋』という書物にまとめた。
その『驢鞍橋』の中につぎのことばがある。
「地獄ヱモ天道ヱモ、只今ノ念ガ引イテユク也」(上巻の十)
この言葉は、依頼心が強く責任転嫁ばかりしている私の日常を叱ってくれる言葉である。
誰か私を心安らかな境地へ導いてくださいと頼んでみても、それは叶わぬ夢である。
私の心は私でしか安らかにできない。
釈尊は大安心を得られ、それに到達する道を教えられた。
しかし、その道を行くか行かないかは各自の決断にかかっている。
そして最後に私の心を安らかにするのは釈尊ではなく、おまえ自身であると正三は教えられた。
日常において困難に出会ったり、思う通りに事が運ばなかったりすると、私はすぐに人の所為にする。
原因の大半が私にあるにもかかわらず、それにまっすぐ出会う勇気を持たないことが混乱に拍車を加えている。
私たちの心はものをふたつに分ける機能を持っている。
順逆・得失・美醜・愛憎など、心は何んでもふたつに分けてしまう。
そういう心の働きは仕方のないことだが、分けられた一方に執着するところから争いが起こり、悩みが生まれる。
なぜ一方に執着するのか。
正三は「我が身がかわいいと思う念」がそうさせていると指摘する。
我が身がかわいいという念が起きれば、その時々の条件にしたがって怒りたくもなるだろうし、欲もかこうし、愚痴も言ってしまうのである。
地獄は地下深くにある世界ではない。
怒ったその場が地獄であり、地獄を出現させているのはおまえ自身だと正三は看破した。
戦国の世も終わろうとする天正七年(一五七九)、鈴木正三は三河国足助庄則定で生まれた。いまの豊田市則定町である。
正三は、則定城主・鈴木忠兵衛重次の長男として、三河武士の血を受けて誕生した。
天正十八年、父の重次は徳川家康に従って関東に移った。正三も従った。十二歳のときである。
慶長五年(一六○○)関ヶ原の戦いが起きると、正三は徳川秀忠軍に属し、信州真田の戦いに加わった。
それが正三の初陣である。
その後、大坂冬の陣、夏の陣に従軍し旗本の一員となった。
徳川秀忠に仕えて大番に列せられたが、四十二歳のとき武士の身分を捨てて出家した。
はじめ畿内で修行したが、三河に帰り山中の石ノ平で荒行をした。
慶安元年(一六四八)多くの人びとの要請に応え江戸に出向いて唱導した。
正三の弟子はもとより、各層の人びとが正三に教えを請うた。
正三はいつも相手の立場に立って助言した。
正三のそれら言行を弟子である恵中が記録し、『驢鞍橋』という書物にまとめた。
その『驢鞍橋』の中につぎのことばがある。
「地獄ヱモ天道ヱモ、只今ノ念ガ引イテユク也」(上巻の十)
この言葉は、依頼心が強く責任転嫁ばかりしている私の日常を叱ってくれる言葉である。
誰か私を心安らかな境地へ導いてくださいと頼んでみても、それは叶わぬ夢である。
私の心は私でしか安らかにできない。
釈尊は大安心を得られ、それに到達する道を教えられた。
しかし、その道を行くか行かないかは各自の決断にかかっている。
そして最後に私の心を安らかにするのは釈尊ではなく、おまえ自身であると正三は教えられた。
日常において困難に出会ったり、思う通りに事が運ばなかったりすると、私はすぐに人の所為にする。
原因の大半が私にあるにもかかわらず、それにまっすぐ出会う勇気を持たないことが混乱に拍車を加えている。
私たちの心はものをふたつに分ける機能を持っている。
順逆・得失・美醜・愛憎など、心は何んでもふたつに分けてしまう。
そういう心の働きは仕方のないことだが、分けられた一方に執着するところから争いが起こり、悩みが生まれる。
なぜ一方に執着するのか。
正三は「我が身がかわいいと思う念」がそうさせていると指摘する。
我が身がかわいいという念が起きれば、その時々の条件にしたがって怒りたくもなるだろうし、欲もかこうし、愚痴も言ってしまうのである。
地獄は地下深くにある世界ではない。
怒ったその場が地獄であり、地獄を出現させているのはおまえ自身だと正三は看破した。
2009年07月09日
新鮮な野菜

きゅうりがこんなに立派に成長しました。
毎朝25本前後、収穫できます。
雨が降った翌日は、びっくりするほど取れます。



アジサイを手渡しできない遠くの皆さんには、
写真でアジサイの美しさをプレゼントいたします。




