2010年01月26日

死への心構え

 小正月が明けぬうちに知人が事故で亡くなった。
明日のいのちは誰にも分からない。
そんな危ういいのちを私たちは生きている。
そうであるなら、いつ死が訪れてもよい覚悟が私にできているだろうか。

 できてはいない。

 私は死を恐れている。
なぜ死を恐れているのか。私の人生が今まで比較的平穏に過ぎてきたからかもしれない。
少ないとはいえ、私を理解してくれる人がいる。
私が死ぬということは、その人たちと永遠に別れなければならないことを意味している。
また逆に私にとって大切な人たちの死は、私との交流を永遠に閉ざしてしまう。
それを私は恐れているのだろう。

 日常の私は、生と死を正反対のものだと無自覚に思っている。
だから生きていさえすれば、交流は途絶えないと勝手に思い込んでいる。

 しかし、現に生きているこの世界は私の思い通りにならない。
死によって隔てられなくても交流できないことばかりである。
よかれと思って発した言葉によって相手を傷つけることがある。
逆に、正しいアドヴァイスを受けても心がかたくななときには、私はそれをはねつけてしまう。

 このように思い通りにならない生であっても、死よりましだと思っている私がいる。

 それほどまで絶やしたくないと思っているのは、私の何を絶やしたくないのか。
 生まれてから徐々に身につけた技能や知識だろうか。
いや違う。それはいつか使い物にならないことが明らかである。
では私が所有している物質的なものだろうか。
いや違う。それは手放し難いが、いつか失うことが分かっている。
それならば素っ裸になったこの肉体だろうか。
いや違う。幼時期の肉体が今どこにもないのに不安を感じていない。

 それでは、一体何を絶やしたくないと恐れているのか。

 私の頭のなかで記憶され時間列に沿って持続されてきたものを絶やしたくないと私は恐れている。
変わりづめに変わっているのにもかかわらず、幼時期から現在まで持続していると思い込んでいるその思いとの決別を恐れているとしか言いようがない。

 心配や悲しみ、苦しみや葛藤は確かにあった。
しかし悲しみを乗り越えた安らかさを知った。
苦しみが去った穏やかさも経験した。
そのような記憶を通して不安定な日常の中に安定を求めてきた。
その安定をこれから先にも持続したいと執着しているそのこと自体が死への覚悟をにぶらせている。

 記憶や安定に重きを置かず、いま出会っていることにまっすぐ出会う。
この稽古こそがいのちを輝かせることであり、私にとって死への心構えである。

(2010年1月22日(金) 矢作新報 リレー・エッセー202 掲載)
  


Posted by 一道 at 14:40Comments(0)