2010年02月28日

折田先生像と辻晋堂

平勝寺先住の小川昇堂さんと辻晋堂さんの関係を先回述べました。
今回は折田先生像と辻晋堂さんの関係を述べます。

と言いますのも毎年いまごろ、
京都大学の二次試験がはじまる頃、
折田先生像が落書きされ、受験生の注目をあびるからです。
といっても今では本物の折田先生像はその場にないので、
折田先生像と称して、張りぼてのキャラクターを誰かが作って設置しているのです。

今年は「ポケットモンスター」シリーズの「タケシ」だそうです。
私は「タケシ」を知りません。それは、どうでもよいことですが。

折田先生とは、折田彦市のことで、京大の前身である第三高等学校の初代校長を勤めた人です。
三高の自由な学風を築いたと言われています。
折田先生の業績をたたえて作られた銅像が折田先生像です。

二十五年ほど前からその銅像に落書きがなされ、徐々にその行為がエスカレートしていきました。
それで今では銅像と台座を総合人間学部図書館の地下書庫に収納したそうです。

収納されたその銅像こそ、昭和二十五年に辻晋堂さんが制作したものです。
いろいろな関係があるものですね。

辻晋堂さんには『泥古庵雑記』という著作もあります。  


Posted by 一道 at 21:33Comments(0)

2010年02月11日

先住 大寰昇堂大和尚

今日2月11日は、平勝寺先住、大寰昇堂大和尚の祥月命日です。

位牌を本堂正面に据え、ろうそくに火をともしました。

ちょうどそのとき、毎朝お参りにみえる伊藤さんが正面の戸を開けました。

「おっさん、今日は誰のお参り?」
「昇堂さんの命日」
「そうそう、昇堂さんが亡くなったのは紀元節の日だったなあ」
「昇堂さんは86で亡くなったが、おばさんは元気でいいね」
「5月が来ると97歳になる」
「毎日、お参りに来てね」と挨拶をして祥月命日のお経をあげかけました。

大寰昇堂大和尚、小川昇堂さんは昭和61年2月11日に亡くなられました。

私は昭和63年の夏から、ここ平勝寺の住職になったので実際の昇堂さんには会っていません。

綾渡の人たちから話を聞くばかりです。
それと昇堂さんが残した歌集『経嶺集』から当時のことを想像しています。

歌集「経嶺集」は昭和54年6月20日に発行されました。

早川幾忠氏が序を寄せています。

早川幾忠という人は「東京出身の歌人で、松倉米吉等と行路詩社結成、金子薫園に入門し「光」の編集同人となる。「高嶺」創刊主宰。歌集に『紫塵集』等。昭和58年(1983)歿、86才。」と検索したら出ていました。

装丁挿画は辻晋堂氏です。

辻晋堂さんは昇堂さんの親戚です。
鳥取県伯耆町出身の彫刻家で、戦後、京都に移り京都芸術大学の教授となりました。
平勝寺の観音さまの指をなおしてくださったことがあります。

早川氏も辻氏もともに昇堂さんのことを「小さくて痩せていて気の強い」老僧だったと言っています。

また辻氏は「和尚の風貌は、良寛の画像に似たところもあり、平勝寺に於ける和尚の生活は、五合庵の良寛を想わせるところがあるのである。」と述べています。

大寰昇堂大和尚を偲んで、歌集『経嶺集』から一首。

「薪作務も雪作務もなきわが寺の行粥はわが腹に丁度よし   昇堂」


  


Posted by 一道 at 15:14Comments(0)