2016年07月10日

太田雄貴選手  がんばれ!



太田雄貴選手、がんばって! リオ五輪での金メダル獲得を期待しています。
上の写真を見て、田淵先生について思い出しました。

今から48年前、同志社大学2回生のとき、体育の選択科目で私はフェンシングをとりました。運動神経が鈍く、スポーツは苦手でした。でも学生時代しかできないだろうと考えて登録しました。

もちろんフェンシングの剣を持ったことも、防具を身に着けたこともありませんでした。
出欠席をチェックし、フェンシングの概略を説明したのは若い先生でした。30歳ほどでした。かっこいい兄貴に出会ったようで、私は毎回ウキウキした気分で体育館に通いました。

フルーレ、エペ、サーブルという3種類を一通り習い、その後はフルーレのみおこないました。
「一歩前へ」「一歩後ろへ」「突け」をフランス語で言っていたようですが、今はすっかり忘れました。運動神経の鈍い私自身が驚いたことですが、相手が突いてきた剣先を払って、自分の剣をくるっと回すと自然に相手の胸を突くことができました。力は要らない。自分の剣をちょっと左右させるだけで相手の剣は流れていきます。

「へえっ。おもしろいな」と感じ、ますます練習しました。今なら考えられないことですが、貧乏学生でしたので、私は裸足でフェンシングをしていたのです。或る練習試合のとき先生が審判を勤めました。相手が突いてきた剣先をちょっと払って、いつものように自分の剣をくるっと回すと飛び込んできた相手の胸に剣が勝手に刺さりました。
「うまい!」 体育で先生に褒められたのは、はじめてでした。試合が終わって先生が「佐藤くん、シューズを買ってやろうか」と言われました。裸足でフェンシングをやっているのを恥ずかしく思い、つぎの週にシューズを買って授業に出ました。

親切に声をかけてくださった先生こそ田淵和彦先生です。スポーツに疎い私は田淵先生がローマと東京オリンピックに出られた人とは知りませんでした。私が教えていただいた3年前に田淵先生は東京オリンピックでフルーレ団体4位に輝いておられました。そのようなことを知ったのは卒業してからでした。私にとっての田淵先生は親切でかっこいい兄貴のような存在でした。

数年前、母校から送られて来た雑誌に田淵先生が退官され、工学部名誉教授になられたと掲載されていました。太田雄貴選手も田淵先生の指導を受けて、リオ五輪ではきっと金メダルを取ることでしょう。
  


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2014年09月19日

平成26年度の稲刈り



数日前から綾渡の人々は稲刈りをはじめました。
今年は天候が不順で、各地で豪雨が降りました。
当地では被害がでるほどの長雨はありませんでした。

しかし、イノシシやシカが畦を壊したり、稲を倒し、その対策に苦労しました。
写真に載せた平勝寺の田にも更に鉄製のメッシュを張りました。
今のところイノシシが入っていません。

もう暫くして、稲刈りです。
イノシシが入りませんように。
雨が降って、田がぬかるみませんように。  


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2014年08月15日

15日の「綾渡の夜念仏と盆踊り」中止です

15日、朝からすでに雨が降っています。
夕方から夜にかけて断続的に雨が降る予報が出ています。

そのため15日の「綾渡の夜念仏と盆踊り」を中止すると保存会長から連絡がありました。
(平成26年8月15日、午前8時30分、発表)

「綾渡の夜念仏と盆踊り」にご来山予定の皆様にはご迷惑をかけますが、ご容赦ください。  


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2013年10月31日

アサギマダラ



今朝、原田霞さんがお寺にお参りに来て「アサギマダラが飛んで来ている」と言われました。

さっそく、カメラを持って原田家を訪ねたら、幸い一頭がふわふわと飛んでいました。
上の写真が綾渡にいたアサギマダラです。
蝶々は「一匹」でも「一羽」でもなく一頭、二頭と数えるのでしたね。

それはそうとして、以前、旭町の林家でフジバカマを栽培したら、そこにアサギマダラが集まってきたことを聞いていました。
原田霞家にもフジバカマが咲いていて、それを吸蜜していると言われました。

アサギマダラは日本のみならず韓国、中国、台湾、ヒマラヤ山脈まで広く分布しているそうです。
アサギマダラの成虫にマークを付けて放し、その個体を捕まえた人の報告を調査すると、秋に日本本土から台湾まで渡っていったことが分かったと新聞で読んだことがあります。

遠い遠いところまで飛んで行くのですね。


  


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2013年07月30日

「蘭亭序」を臨書する

 


七月中旬、私は原田鈔治家へ棚経に行きました。
原田家の皆さんは揃って棚経に参列されました。
お経が終わってお茶をいただいているとき、当家の高校生、拓実君が書いた半切を見せていただきました。
とても上手に書いてありました。
それは『蘭亭序』の一部を臨書したものでした。

 拓実君は小学生のとき、平勝寺へ書道を習いに来てくれました。
その関係上、書かれた臨書の読みと作品の構成について私の意見を述べました。
そのとき、拓実君の祖母(さよ子さん)が「和尚さんの臨書が一枚ほしい」と言われました。
私は不遜にも「書いてみましょう」と約束してしまいました。

 拓実君が何をお手本として臨書したのかを聞くと高校の書道の教科書でした。
さっそく教科書を借りました。
その教科書の最初に蘭亭序〈神龍半印本〉が原寸で複写されていました。
神龍半印本の蘭亭序は北京故宮博物院が所蔵しており、五年ほど前に東京で初公開されました。
ニュースで聞き及んでいましたが、残念ながら見に行くことができませんでした。

 今から千六百五十年ほど前、会稽山の麓の蘭亭で曲水の宴が催され、名士四十一人が集いました。
盃を回し、詩を詠みました。
それを一巻にまとめ、王羲之がその場で序文の草稿を作りました。
世が変わり事が異なるとも感動するところは変わらないということを二十八行、三百二十四文字で表わしました。
下書きですから思いのままに書き、追加や書きなおしが見てとれます。
追加や書きなおしがあっても、これこそ日本では奈良時代から現代まで書道のお手本とされているものです。

 王羲之は魏晋南北朝時代の東晋の政治家です。
隋、唐と時代がくだり、王羲之の名声を高めたのは唐の太宗・李世民が王羲之の書を深く愛したからです。
太宗は王羲之の真行二百九十紙、草書二千紙を収集したといわれています。
そして王羲之が書いた蘭亭序も自分のお墓へ入れました。
そのため王羲之の真筆は今、ひとつもありません。

 現在、王羲之の書とされているものは、唐代以降に複写したものか、石版や木板に模刻して、それを写しとった拓本のみです。

 したがって、拓実君が持っていた教科書の蘭亭序〈神龍半印本〉も王羲之の真筆ではなく、唐のはじめに馮承素という人が模書(敷き写し)したものと言われています。
教科書の蘭亭序をよく見ると帖首の右上に「神龍」という印が割り印されています。
神龍とは唐の元号で七百五~七百七年のことです。
この割り印が押してあるので〈神龍半印本〉といいます。

 拓実君は蘭亭序の前半にある「以暢叙幽情是日也天朗氣淸惠風和暢」の十六文字を臨書していました。
臨書とは古典の文字を詳しく観察して文字の造形、筆の動き、特徴的なおもむきを捉えることだと思います。
その意味では文意を汲まず、どこからどこまで臨書しても構わないです。
しかし私の趣味として、半切に書くとしたら意味の通るように書くのがよいと思っています。
この場合ですと少なくとも直前の一字「足る」を入れたほうがよいです。

 そこで私は「足以暢叙幽情是日也天朗氣淸惠風和暢」の十七文字を臨書しました。
 「行書は王羲之にはじまり、王羲之に終わる」とまで言われています。
何枚、書いてもうまくいきませんでした。
「書いてみましょう」と約束してしまいましたので練習途中のものですが一枚、拓実君に渡しました。
上の写真が渡したものです。
  


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2013年06月24日

吉兼さんの蕎麦打ち




去年、吉兼さん夫妻が綾渡に引っ越されて来ました。
そして、この春、新居が完成しました。
吉兼さんは趣味が多彩です。そのうちの一つが蕎麦打ちです。
引っ越しのお披露目として蕎麦を招待したいと言って来られました。
私としても新築祝いを持って行きたいと思っていましたので、喜んで招待を受けました。
当日、10時に母と家内と私の三人で吉兼家を訪問しました。
吉兼さんは早朝5時から石臼で蕎麦の実を挽いて粉にし、練り、延ばし、たたんで切るところまで済ませておられました。
私たちが訪問してからは、話をしながら山菜の天婦羅をあげてくださいました。
茹でたての蕎麦をごちそうしてくださいました。
最高においしかったです。末長く綾渡の住民としてお互いに楽しく暮らしましょう。

それはそうと、私のブログの中に「中国語で綴る」というコーナーがあります。
中国人の友人に私の近況を報告するために設けています。
そこに吉兼さんの蕎麦打ちの記事を書きました。
記事の中につぎの一文を入れました。
那天他早晨5点起床用石臼把荞麦种子碾成粉。(その日、吉兼さんは早朝5時に起きて、石臼で蕎麦の実を挽いて粉にしました)」
数日後、中国の友人が以下のように注意してくれました。
那天他早晨5点起床用石磨把荞麦种子碾成粉。」
石臼と書いてはダメ、石磨と書きなさいとのことです。
ブログに吉兼さんの蕎麦挽き臼の写真を載せておいたので、友人がそれを見て添削した理由を書いてきました。
图片中的石器叫做石磨。石臼是碗状的,它和石棒组合在一起用来舂谷物。(写真の石器は石磨といいます。石臼はお碗状のもので、石棒といっしょに使って穀物を舂くものです」
さすがに漢字の国、中国ですね。
博覧強記の友人にお礼のメールをしました。
作文するとき、日中辞典で「碾子(ひき臼)」という言葉を引いたのですが、日常そこまで区別していませんでしたので石臼にしてしまいました。
茶臼は挽くのに臼という言葉を日本では使っています。
以下の写真で吉兼さん所有の臼は挽き臼、平勝寺所有の石臼は餅をつく臼、私たち連区の漆畑の水車小屋にあるのは玄米をついて精米する臼と杵です。




中国の映画で驢馬が一日中、くるくる挽き臼を引いている場面をみたことがあります。
また、磑(がい)という言葉は穀物を粉にする挽き臼ではなかったでしょうか。
ともあれ、日本では臼を持っている家庭が多くはありません。
「つく」という動作もあまりしませんね。
搗く(もち米などをついてこねる)とか、慆く(柔らかいものをついてこねる)とか、樁く(棒でまっすぐつく)とか、舂く(とんとんと打ちくだいてつく)など「つく」行為を区別する必要がないので漢字を忘れていくのでしょう。もちろん梵鐘を撞くなど違った「つく」行為には違った漢字が当てられているので間違わずに使いたいものです。
  


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2013年04月18日

龍宝寺落慶法要




 平成二十五年三月三日(日)午前九時から龍宝寺本堂新築再建の落慶法要が営まれました。
私を含め十六ヶ寺の住職が随喜しました。
川面の檀家ならびに龍宝寺さんの親族も参列しました。
 今から約四百年前、清室寶泉という和尚さんが小さな草庵を結んで仏道修行と地域住民に布教活動をしました。
その三十年後、正保三年(一六四六)に大鷲院三世・寶山全鏡和尚さんが、この草庵に隠居し龍宝寺として再興しました。当時は三代将軍家光の時代であり、境内地の広さは縦八間、横十五間であったそうです。
これ以後、龍宝寺は大鷲院末寺となり、今日に至っています。

 今回、解体された本堂から棟札が出てきました。
その棟札には宝暦四年(一七五四)と書かれていました。
今から二百五十九年前に旧本堂が建てられたことが分かりました。
宝暦は享保の改革後、増税による百姓一揆が各地に起きた時代でした。

そのような大変経済状況が悪い時代にもかかわらず、龍宝寺の本堂が建てられたのです。
川面村の安藤紋右衛門の寄進によったものでした。
安藤紋右衛門の子孫が今の安藤實さんです。
その安藤實さんが大工さんとしてこのたび本堂を建てました。
尊い因縁を感じます。

 明治九年(一八七六)に、宗門制度の改変により法地寺院となり歴代住職の世代を数えることになり現在の松井孝宗住職が九世になります。

 明治十三年(一八八○)、龍宝寺三世・倉地覚忍大和尚さんの代に開山堂を増築しました。
その前年に覚忍和尚さんから得度を受け、お坊さんになったのが九歳の隆堂さんです。
隆堂さんは六年間、覚忍和尚さんのもとで小僧をして十五歳のとき香積寺の河村鴻川大和尚さんに随身しました。
この河村鴻川大和尚さんは平勝寺の法地開山様です。
鴻川大和尚さんのご縁で六年後に隆堂さんは平勝寺の住職になります。
私は平勝寺十世ですが、大覚隆堂大和尚さんは平勝寺四世です。

隆堂さんは二年ほど平勝寺の住職を勤め、明治二十六年五月に師匠である大智覚忍大和尚の跡を継いで龍宝寺の住職になりました。

 この大覚隆堂大和尚さんから得度を受け、お坊さんになったのが平勝寺九世・小川昇堂さんです。
深いご縁があるものですね。

 ともあれ榎津勇建設委員長のもと龍宝寺檀信徒の皆さんが協力して、間口六間半、奥行五間の木造平屋造り銅板葺き(面積約三十四坪)が完成しました。
三年前に住職より本堂修理の必要性を発議し、それを受けて寺役員が対応を検討しました。
耐震構造を備えた修理の場合で三、四千万円、新築の場合で五、六千万円の概算が出たそうです。
それ以後、経費調達の苦労を重ね、実際の工事は去年の二月から丸一年かけられました。

施行者は足助の鳥居材木店です。

 その他のことですが、去年の三月、龍宝寺さんから山号額を書くよう依頼されました。
私は半年かけて文字を仕上げました。
山号額の板を鳥居材木店さんが寄付され、名古屋の長谷川仏具店さんが彫刻されました。
落慶法要前に本堂入口に掲げられました。
上記の写真がそれです。
 
献珠山龍宝寺が続くかぎり、山号額も残ることでしょう。
私にとって善き巡り合わせをいただいたと感謝しています。
  


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2012年11月10日

龍宝寺山号額




 平勝寺の隣寺である川面の龍宝寺さんが今、本堂の新築をなされています。
本堂に掲げる山号額を依頼されましたので揮毫しました。
120cm*60cmの大きさです。

 今までの経過を記します。

2月11日 本堂解体の法要。龍宝(導師)、平勝(維那)、清涼(堂行)
3月4日  地鎮祭。龍宝(導師)、平勝(維那)
3月26日 額を書くようにと依頼される。
4月8日  上棟式。龍宝(導師)、平勝(維那)、正寿(太鼓)、宗源、慶安
10月22日 山号額の文字を仕上げる
11月1日 鳥居材木店さんが山号額の板を準備された。
    名古屋の長谷川仏具店さんが一道の書を持って行った。

 上の写真の書を今、仏具屋さんで彫ってもらっています。

 今後の予定は
平成25年3月3日(日)に落慶法要をなされるとのことです。  


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2012年05月29日

清涼寺ご開帳の角塔婆




今年8月に清涼寺ご本尊・薬師如来のご開帳がおこなわれます。
そのため、角塔婆の揮毫を頼まれました。
のびのびと書くために、広い集会所で書きました。

書いた内容は、

大圓鏡智 恭惟奉勤修本尊薬師瑠璃光如来開扉法要伏願国土安穏十方施主諸縁吉慶

平等性智 経曰 世尊我等今者蒙佛威力得聞世尊薬師瑠璃光如来名號

成所作智 銘云 一切如来無佛性同時正覺先時成當知學道諸菩薩佛性何縁佛性生

妙観察智  維時 平成二十四年八月吉日 医王山清涼寺四世則安 恭建之

以上の通りです。



  


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2011年11月05日

地元高校の授業を参観して





 今は止めてしまいましたが、小学生を対象に平勝寺で書道を十二、三年教えました。
書道の合い間にサッカーをしたり、レスリングをして遊びました。
皆、明るく元気な子どもたちでした。

 その子どもたちが次々と高校生になり、順繰りに卒業していきました。
就職した子、進学した子、それぞれ巣立っていきました。
進んだ道は違っても、その子なりの目標に向かって頑張っていると聞けば、こちらまでうれしくなります。

 あと数年、高校生になる教え子がいます。
皆、どんな高校生活を送るのだろう。とても関心があります。

 十月中旬、地元高校で或る会議に出席しました。
ちょうど公開授業日でした。見知った子どもたちが受ける授業を私は見たいと思いました。
それで一年生から三年生までの授業をそれぞれ五分程度、参観しました。

 最初の教室は三年生に現代文を教えていました。
黒板に「正岡子規」「悟り」「平気」と書かれていました。
生死の境をさまよう病床で子規が「如何なる場合にも平気で生きて居る事」が悟りであると自覚したところを講義されるのでしょう。

 つぎの教室は政治経済を教えていました。
黒板に企業の形態が列記されていました。
株式会社と書かれた下に「所有と経営の分離」と先生が板書し、株式会社の特質を説明するところでした。

 つぎの教室は古典を教えていました。
項羽と劉邦の名前が書かれ、先生は秦の都、咸陽の説明をしていました。
漢文「鴻門之会」の授業でしょう。

 つぎの教室は数学を教えていました。
中心C(a ,b),半径rの円の方程式 (x-a)2+(y-b)2=r2 を書き、どのようにすればこの方程式が導きだされるのかを解説していました。

 どの教室でも先生は大きな声ではっきりと熱心に講義されていました。
大人になった私もあらゆる場面で人から教えを受ける機会はあります。
しかし今、参観した教室の先生のように自信に満ち、明確に、そして丁寧に教えを受ける機会はめったにありません。

 私の高校時代の先生方もきっと一所懸命教えてくださったに違いありません。
それにもかかわらず、受け取る私がいい加減であったことを恥ずかしく思っています。

 人類が蓄積してきた知識を順序立て集中して習うことができるのは学生の特権です。
また、学生時代しかそのような時間を持つことができません。
しかし私がそうであったように学生時代の真っ只中では、その特権を自覚できないようです。

 二度と戻らない貴重な時間を過ごし、教えを受ける稀有な機会に出合っているのですが、その大切さに気づかない。
人のことを言う前にこの私が今、与えられた時間に感謝しているか、学ぶことに喜びを感じているか、と反省させられる授業参観でした。
  


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2011年08月17日

「綾渡の夜念仏と盆踊り」生放送




平成23年8月15日、夕方6時半からNHKで生放送するため中継車が待機していました。




 今年の練習風景について書きます。 

七月に入いると、平勝寺境内地で「綾渡の夜念仏と盆踊り」の練習がおこなわれました。

 夜七時半に盆踊りの歌い手が集合します。
教えるのは、四十六年歌い続けている田口栄治さん。
習うのは、まだ会社勤めが忙しい綾渡の中堅六、七名です。
 綾渡の盆踊りは、楽器をまったく使いません。音頭取りの歌声だけです。
昔は多くの曲があったそうですが、今は十曲だけ歌います。
教えたり、習ったりする時、難しいのは曲に楽譜がなく、口から口へと伝えなければならないことです。
人それぞれに声の高低があり、音感の違いもあります。
栄治さんはひとりひとりに細かく注意しアドバイスを与えていきます。
ここ数年は地区の古老に歌ってもらい本筋から離れないようにもしています。

 八時からは夜念仏の練習です。
男性約二十名が参加します。音頭取りが鉦を三つ鳴らし「光明遍照十方世界」とよく通る声で詠いはじめます。呼吸を合わせ「念仏衆生摂取不捨の光明は」と側の人々が唱和します。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀」暗い境内地に清らかな声がゆっくりと染み渡っていきます。

 ふたりいる音頭取りのひとり吉治さんは、いま入院中です。
そのために代役を立て夜念仏が続けられるよう特訓中です。

 山門のところで「門開き」が唱えられます。
私が門を開ける仕草をして念仏衆を引き入れます。
その時、私と香炉持ちの人が同時に礼拝するようそのタイミングを練習しています。

 八時半からは盆踊りの練習です。念仏衆に女性や子どもが合流して約四十五名で練習をはじめます。
綾渡で生まれ育ったフミエさん、カナエさん、三四子さんが今年つぎのような提案をされました。

 「体の向きや扇子の高さが皆少しづつ違っているように思う。私たち三人は年が多くなり昔ほどうまく踊れないが、習ったことを今なら教えることができると思う。皆は基本ができているので、ちょっと直せば揃うと思うよ」と。

 皆はこの提案に賛同しました。
今まで、見よう見まねで踊っていたので、はっきり教えてほしいと思っていたからです。
踊りの輪の中心に三人が入って踊りました。
大きな輪で踊っている人たちは、中心の三人の踊り方を見て踊ります。
それぞれ自分が疑問に思っていたところを特に注意しているようです。

 私の場合は、今まで気がつかなかった手の位置、足の運び、手拍子の打ち方、顔の向き、扇子の煽ぎ方など習うべきことがいっぱいありました。

 例年は毎土曜日に練習をしていました。
今年は豊田市視聴覚ライブラリーの撮影班が保存用のビデオを撮るということもあり、練習に熱が入っています。
木・金・土曜と続けて練習したこともありました。

 それぞれが仕事を持っていますので、練習時間を多く取ることは困難です。
しかしこの数年来、綾渡の人々の踊りに対する意識が向上していると私には思えます。

 それは綾渡の皆さんと役員の人たちがよきコミュニケーションをはかっているからだと思います。
役員の人たちは独断専行せず、皆さんの意見を汲み上げています。
そればかりではなく、肝心な時にはリーダーシップを発揮し、一定の方向に導いています。

 その成果は、きっと綾渡踊りに反映されるでしょう。
人口の少ない地区ですが、皆さんの協力で国の重要無形民俗文化財「綾渡の夜念仏と盆踊り」を守って行きましょう。
それが取りも直さず綾渡が元気でいるみなもとだと思います。
  


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2011年06月30日

平勝寺四世・大覚隆堂大和尚


 隣寺の龍宝寺で法要が勤まりました。
 法要を終えると龍宝寺さんが一冊の古い本を持って来られました。
倉を整理していて見つけたとのことでした。大正五年に発行された『曹洞宗名鑑』という本でした。

 平勝寺と龍宝寺に共通の大覚隆堂大和尚の経歴が分かりませんかと私が以前に質問しました。
龍宝寺さんがそれを覚えておられ、『曹洞宗名鑑』に隆堂さんの経歴が載っているのを見つけ、私に教えてくださいました。

 『曹洞宗名鑑』によりますと、平勝寺四世・大覚隆堂大和尚の経歴は以下の通りです。

 師は明治三年三月、尾張の東春日井郡阪下村大字神屋に生まれた。
父を弥平といい、母を津儀といった。四男一女あって師はその三男であった。

 師が六歳のとき、菩提寺曹洞宗観音寺の梅峰に就いて習字や読書の教授を受けた。
観音寺梅峰について調査すると以下のことが分かった。
この観音寺は現在の春日井市神屋町字上郷一二八にある正受山観音寺のことであり、梅峰とは第六世・洞嶺梅峰大和尚のことであった。

 その梅峰の勧めによって師は東加茂郡賀茂村龍宝寺倉地覚忍の弟子となった。
覚忍とは龍宝寺三世・大智覚忍大和尚のことである。

 師が九歳のとき明治十二年四月八日、覚忍大和尚によって得度を受け正式な僧侶となった。
そして覚忍大和尚の身辺に侍すること六年、十四歳になったとき岐阜県武儀郡関町香積寺の樺山琢牛の会下に安居した。

 翌、明治十八年二月より足助町香積寺の河村鴻川に随身した。
師が十五歳のときである。この鴻川とは、平勝寺法地開山・舟山鴻川大和尚のことである。

 翌、明治十九年冬に西加茂郡小原村嶺雲寺の高木賢牛のもとで立職した。
十六歳である。立職とは、首座になることである。
嶺雲寺は小原の大草にあり、賢牛とは、第十九世・牧奘賢牛大和尚のことであった。

 十七歳になった明治二十年二月に愛知県第一號曹洞宗専門支校に入学した。
二十歳になったとき永平寺に瑞世し、明治二十四年の冬、平勝寺の住職になった。師は二十一歳だった。
二年ほど平勝寺の住職を勤め、明治二十六年五月に、師匠である大智覚忍大和尚の跡を継いで龍宝寺の住職となった。

 その後、大鷲院の小寺黙音(二十一世・豪潮黙音)、香積寺の河村鴻川(第三十一世・舟山鴻川)、養源寺の丘宗潭(安泰寺の開山・大潤宗潭)に師事して親しく鉗鎚を受けた。

 明治四十四年以降、すなわち四十一歳以降は大本山布教師を命ぜられ各地を巡教した。

 平勝寺の位牌によると、大正七年八月十七日に遷化せられた。
以上のことが分かりました。
  


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2011年05月10日

旧暦四月の降誕会




 四月八日はお釈迦さまの誕生日です。
平勝寺では旧暦でお祝いしていますので、今日、五月十日が降誕会です。
今朝、大門に花御堂の花を摘みに行き、飾りました。

 今から約二千五百年前、摩耶夫人は出産のため実家に戻る旅にでました。
その途中、ルンビニー園で急に産気づき、お釈迦さまを産みました。
花御堂はルンビニーの花園をかたどったものです。

 花で飾った小さなお堂の中央に水盤を置き、お釈迦さまの誕生したときの姿(右手で天を指差し、左手で地を指差している)に似せた仏像を安置します。

 その誕生佛に甘茶をそそいでお参りします。
甘茶をそそぐのは、お釈迦さまが生まれたとき、九頭の龍が天から香ばしい水を吐いて、お釈迦さまに産湯を使わせたという伝説に基づいています。




 この甘茶を飲めばマムシに咬まれないとか、甘茶で墨をすり字を書けば書道が上達すると言われています。
伊藤さんがお参りに来てくださいました。



  


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2011年01月10日

辻晋堂展・生誕100年

生誕100年 彫刻家・辻晋堂展
2011年1月29日(土)~3月27日(日)
神奈川県立近代美術館・鎌倉(The Museum of Modern Art, Kamakura )

辻晋堂さんと平勝寺先住・小川昇堂さんの関係を以前にこのブログに掲載しました。
神奈川県立近代美術館の山田さんがその記事を見てくださいました。
そして辻晋堂展の開催をお知らせくださいました。





私は辻晋堂さんの本物の作品をほとんど見たことがありません。
綾渡のお檀家さんに残されている小品・柿本人麻呂や小川家に残されている小品を見ただけです。

現・京都市立芸術大学の教授に赴任後(1949年)の抽象的な陶彫に取り組んだ作品集を本で見たことはあります。
「寒山」という作品は非常に印象的でした。





よい機会です。
時間の都合をつけて、鎌倉まで行こうと思っています。
皆さんも、よろしかったら行ってください。  


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2010年11月16日

もみじの平勝寺




今日の平勝寺のもみじです。
排気ガスなどの影響がないので、色彩がとても鮮やかです。
明日の観音講に参列される人たちに景色のお土産がさしあげられます。



  


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2010年11月02日

竹林の七賢




 今から約千七百年前、晋という王朝が中国を統一しました。
晋によって統一される前は、魏・呉・蜀という三つの国が並び立っていました。
曹操・孫権・劉備らが争った三国志の時代です。

 魏は三国の中で最も高い国力と軍事力を持っていました。
魏の第三代皇帝の後見人になった司馬氏は、すべての手段を使って魏の実権を握ってしまいました。
それ以後、魏は司馬氏の傀儡政権となりました。
そして第五代皇帝のとき司馬氏に皇帝の地位を譲り、魏は滅亡しました。

 司馬氏は晋を立てました。強い軍事力を譲り受けた晋は呉を滅ぼしました。
蜀はそれ以前に既に滅んでいました。
このようにして晋は三国を統一しました。
その晋も後継者が暗愚であったため、皇族同士による争いが続き国内は荒廃しました。

 国が乱れると人の心も乱れてしまいます。

 自分の利益を守るために、自分に反対する者を殺す者が多く現れました。
その者たちは自分の行動を正当化するためにあらゆる理由づけをしました。
また、官吏登用法を悪用して賄賂を受け取る役人も現れました。

 当時、隅々まで行き渡っていた儒家思想は祭祀を重視していました。
祖先や天を祀ることによって、祖先や天が司ると思われていた自然や偶然の出来事を意のままにしようとしました。
思想が形骸化すればするほど、祀り方が複雑になっていきました。
そして複雑な祀り方を覚えている者が幅を利かすようになりました。

 そのような社会は、想像するだけでも息苦しさを感じます。

 煩わしい決まりの拘束から解放されたいと願う人びとが現れました。
晋の時代で言えば阮籍に代表される人々です。
へつらい、ねたみ、足を引っ張り合うような世間のありように彼らは反感を持ちました。
発した一言が命取りになるような権力を巡る醜さにも反感を持ちました。
官僚生活における汚さにも反感を持ちました。

阮籍は、とりわけ礼法を重んずる儒家をきらいました。
阮籍の母が亡くなったとき、儒家が弔問に来ました。
阮籍は彼を白眼視しました。
葬儀ではまず主人が哭してから客が哭泣の礼を取るのがしきたりであったのです。
阮籍はそのような形式だけの礼法を毛嫌いしました。

 阮籍ほど徹底できないこの私は世の習慣に普通程度に従っています。
しかし、息苦しさを感じているのも事実です。
理由を付けなければ行動できない社会。
保身のための言い訳を言い続ける社会。
自分の氏名、住所を隠して他者を非難する社会。
意のままに自然や生命を操ろうとする社会。

そのように自分の思いを先とするような社会より、もう少し譲り合える社会を私は望んでいます。

 小賢しい頭で作りごとをすれば自他ともに身動きがとれなくなるのではないでしょうか。
よいと思ったことがすぐに実行でき、間違ったら謝れる人になりたい。
そして誤りを許しあう寛容な社会になってほしい。
複雑な問題を抱える今の社会では、こんな考えは虫がよすぎるでしょうか。
  


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2010年10月14日

サツマイモの収穫




今年も大量のサツマイモが収穫できました。
太陽と大地と雨風のおかげです。
それにも増してフミエさんがイノシシからサツマイモを守り続けてくださったおかげです。
サツマイモ畑の周りをイノシシが何度も徘徊していたそうです。
家内がさっそく「鬼まんじゅう」を作り、お世話になった人たちに配りました。


  


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2010年09月30日

椿立カルチャー教室




 来る十月七日(木)午後一時から椿の里で写経をします。
今、写経の仕方の説明資料を準備したところです。


この「椿立カルチャ教室」は前区長・原田鋭美さんが発案しました。今年の二月からはじまりました。


 私たち椿立地域の人びとが自分の得意分野を気楽に教え、同じ地域の人たちが家庭的な雰囲気のもとで楽しく習えることを眼目にしています。いろいろなことを勉強して心豊かに暮らし、椿立に住んでよかったと思える地域にしたいと原田前区長が考えました。


 講師の依頼、受講者の募集等は、寄田種子さん、藤澤時子さん、小野君子さん、原田恵子さんがお世話をしてくださっています。


 現在、椿立地区は五十七世帯です。綾渡が28軒、大蔵連が3軒、山谷が12軒、椿立が3軒、室口が6軒、漆畑が5軒で合計五十七軒です。この地区には専門知識や専門技術を持った人がたくさんみえます。また、林業・農業・昔の暮らし方に精通した人もたくさんみえます。そのような人が講師になって「椿立カルチャ教室」がはじまりました。二月から八月までどのような教室がひらかれたかを挙げてみます。
 

二月「わら草履づくり」 講師:小野君子、筒井富美子
 わらの代わりにカラフルな布切れを使いました。大小さまざまな布草履ができて大爆笑。

三月「日本映画の発生と黒澤映画について」 講師:都築政昭
 参加者全員に都築先生の新刊本『黒澤明 全作品と全生涯』が無料で配られました。

四月「絵手紙」 講師:宇津木隆
 絵手紙用の葉書に各自が書きたい絵を描き、自分の言葉を添えました。

五月「銭太鼓」 講師:内藤フミエ
 フミエさんが出雲地方で習ってきたもの。練習を積んだ女性たちが秋のお祭りに演技を披露します。

六月「カゴ作り」 講師:黒柳喜美子、大竹豊美
 綾渡の藤澤キヨコさんと藤澤ヨネさんがカゴ作りの元祖。梱包用のビニールテープで作りました。

七月「書道」 講師:原田恵子
 読売書法展七回入選の恵子さんが講師。恵子さんのお手本を参考に、太筆で色紙に書きました。

八月「お話であそびましょう」 講師:佐藤かつ子、藤村純子
昔ばなしを聞いたのち、「おむすびころりん」を皆で群読しました。

九月「フェルト」 講師:小川今日子
 フェルト作家の今日子さんが講師。染色した毛でフェルト玉を作り、ストラップに仕上げました。


 そして十月は私が写経用紙などを用意して皆さんといっしょに写経します。


 釈尊在世のときは、写経ということはありませんでした。釈尊が言われたことを耳で聞き、頭で覚えて、口で伝えていたからです。

 紀元前後にインド各地で大乗仏教が興り、多くの経典が出来ました。その経典を広めるために書き写すことが勧められました。中国ではインドの言葉から中国語に翻訳する事業が国家の仕事としておこなわれました。それとともに写経も膨大な量、おこなわれました。シルクロード沿いの古代都市や敦煌から古い時代の写経が発掘されています。

日本では奈良時代、官費を支給して写経所で写経しました。現代ではコピー技術が発達しましたので、お経そのものを伝えるために写経する必要はなくなりました。しかし静かな時間を持ち、自己の修養を積むためには、写経が最適と思われます。
  


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2010年07月18日

岩瀬文庫





平成22年(2010)7月16日、愛知大学の松尾先生たちとともに岩瀬文庫へ行ってきました。

岩瀬文庫は西尾市にあります。
古典籍から近代の図書まで、その蔵書数は8万点余にのぼります。
西尾の豪商・岩瀬弥助が私財を投じ、明治41年に設立しました。

鈴木正三の『二人比丘尼』『念仏草子』『因果物語』『麓草分』『盲安杖』『破吉利支丹』『海上物語』を閲覧しました。
それと島原の乱の戦闘配置が書かれた絵図を親しく閲覧しました。

また長円寺本『正法眼蔵随聞記』のコピーを閲覧しました。
長円寺13世、万仭道坦大和尚についても、いろいろ調べました。

学芸員の方と名刺を交換しましたので、今後、貴重な資料を見せていただけると思います。

仏教美術専門の学芸員さんに名刺を渡したところ「聖観音菩薩坐像の平勝寺さんですか」と言われました。
平勝寺の観音さまを益々、大切にお守りしていかなければならないと自覚しました。  


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2010年05月03日

咲くべき今にただ咲いている


 四月五日は二十四節気のひとつ清明の日でした。
この日を中国では清明節と呼び、人びとは先祖の墓参りをします。
中国において現在、清明節当日は法定祝日になっています。
それで今年は四月三日の土曜日から五日まで三連休でした。
多くの人がピクニック(踏青)を兼ねて郊外へ墓参りに行きます。
その結果、大渋滞が発生したとニュースで伝えていました。

 私たち日本人は清明に墓参りをする習慣はありません。
清明の直前の節気すなわち春分のときに春彼岸として墓参りをします。
墓参りの習慣は違いますが、清明という名にふさわしい季節は中国でも日本でも同じです。

 平勝寺周辺では、四月初旬に桜が満開になり、レンギョウやユキヤナギが咲きました。
池の鯉はゆったりと泳ぎだしました。
 天地は明るく、清らかです。

 私は清明という言葉自体が大好きです。
 宋代に書かれた『歳時広記』に「清明とは、もの清浄明潔に生ずるをいう」とあります。
 そして『歳時百問』ではそれを解釈して「万物生長のとき、みな清潔にして明浄なり。故にこれを清明という」とあります。
 
 実際、芽ぐんだ小さな葉の清潔さはこのうえもありません。
この時期、それぞれの草木はそれぞれの花を咲かせています。
レンギョウは黄色い花を、ユキヤナギは白い花を咲かせています。
私にとってこれら花の姿ほど清らかに見えるものはありません。

 私の日常はこの花々の清らかさから程遠いものです。
なぜ程遠くなるのでしょう。
今、私がなすべきことを黙々となしていないからです。

 ひとつの行為をなすと自らその成果を求め、他にもその成果を認めてもらいたいという心が動きます。
他から評価されないと自信を喪失し、なした行為すら悔やんでしまいます。
逆に他から思わぬ賞賛を受けたときには、私にそぐわないと思いつつも有頂天になってしまいます。

このようにひとつの行為をそのものとして完結させず、常に他と兼ね合い、くらべながらなしています。

 私にひきかえ花々は一切、他との兼ね合いをしていません。
レンギョウは「白い花を咲かせたい」とユキヤナギを羨んでいません。
ただレンギョウの黄色い花を精一杯咲かせているだけです。
「こんなに綺麗に咲いてるよ、見て見て」と結果の見返りを期待していません。
誰が見ていようが見ていまいが、咲くべき今にただ咲いているだけです。

 このように他との兼ね合いをしない清らかさと清明の明るさは同質のものと思います。
中国ではくもりのない澄みきった鏡を明鏡といいます。
明鏡はものの姿をはっきり写しますが、写した跡を留めでいません。
初夏に向かってレンギョウが花を散らす時、レンギョウは精一杯花を散らすだけで盛時の跡を留めていません。

 清らかさと明るさを合わせもつこの清明の季節に、私は花々が発する「清新の気」を私に移したいと願っています。

(矢作新報に掲載したものを加筆訂正)  


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