2009年09月26日

聞く耳が持てない

参不得(聞く耳が持てない)

 光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし。
師はあれどもわれ参不得なるうらみあり、参ぜんとするに師不得なるかなしみあり。
かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。

 これは正法眼蔵行持の巻の上巻、末尾に出ていることばです。

 『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は、私たち曹洞宗の開祖・道元禅師が著された書物です。

 道元禅師は一二二三年、二十四歳のとき栄西禅師の弟子・明全とともに博多から宋に渡りました。
十日あまりの航海ののち、道元禅師を乗せた船は現在の浙江省に着きました。
ところが、入国の手続きがうまく行かず道元禅師は三か月間、船上にとどまりました。
かえってそれが幸いとなりました。
『典座教訓(てんぞきょうくん)』に道元禅師自身が書きとめておられますが、阿育王山の老典座和尚と出会ったのです。
 阿育王山の老典座とは修行僧の食事をつかさどる役職の老僧です。
道元禅師が乗っていた船に日本の椎茸を買いに来たのです。

「あなたほどの方が何故、煩わしい食事係などされているのですか。坐禅をしたり、お経の研究などをされたほうがよいのではないですか」と道元禅師が老僧に質問しました。

 老典座は慈しみをもって答えました。

「お若い外国の客人よ、惜しいことにあなたは未だ修行のなんたるかがわかっておられない。文字のなんたるかもおわかりでないようですね」と。

後日談があるのですが、ともかくその場で道元禅師は冷や汗をかかれました。

 入国手続きが済み、宋の国に上陸した道元禅師は天童山景徳寺に赴いて無際了派禅師に参じ、足かけ二年の修行をしました。
無際了派禅師から、悟りを得た証である印可証明を授けましょうと言われましたが、道元禅師は自分の修行はまだまだこれからですと辞退されました。
そして遍歴の旅にでました。

 広利寺や万年寺など五山十刹を遍歴したのですが、正師にめぐり会えず失望しました。
失意のなか、もう日本へ帰ろうと考えていましたが、如浄禅師が天童山の住職になられたと聞き、再び天童山へ向かいました。

 如浄禅師に出会った瞬間に、この方こそ求めてやまなかった正師であることを直感し、天童山で大修行をしました。
その後、如浄禅師の法を継ぎ二十八歳のとき帰国しました。
ともに宋に渡った明全は景徳寺で病に倒れ亡くなっていました。
道元禅師は明全の遺骨を胸に抱いて肥後の河尻に帰ってきました。

 日本に帰った道元禅師は建仁寺に身を寄せましたが、比叡山からの迫害を受け、山城深草の安養院に移り住みました。
そこで『正法眼蔵』の第一巻となる「弁道話」を著しました。
道元禅師三十一歳のときです。

 建長五年(一二五三)一月、道元禅師は病床で『正法眼蔵』最後の巻となる「八大人覚」を著しました。このように道元禅師は生涯をかけて「弁道話」から「八大人覚」まで八十七巻に及ぶ大著を著しました。

 その『正法眼蔵』行持の巻に表題のことばがあります。

 光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし(時の経つのは矢よりも速く、いのちは露よりも脆く失われやすいものである。)

師はあれどもわれ参不得なるうらみあり(師匠はいるけれども、私が師匠の説示を受け止められない残念さがある。師匠は丁寧に説法してくださっているのに、私にそれを見聞きする眼や耳がそなわっておらず、的外れな理解をしている)

 参ぜんとするに師不得なるかなしみあり。かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり(またやっと師匠の説法を見聞きできる眼や耳がそなわって来たときには、師匠がいなくなってしまう。このようなことは、目の前で起きていることである)

 六十を過ぎたわたしには、時間の大切さと師匠(よき生き方を導いてくださるあらゆる人びと)の有難さをひしひしと感じます。



Posted by 一道 at 22:01│Comments(0)
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