2010年02月28日

折田先生像と辻晋堂

平勝寺先住の小川昇堂さんと辻晋堂さんの関係を先回述べました。
今回は折田先生像と辻晋堂さんの関係を述べます。

と言いますのも毎年いまごろ、
京都大学の二次試験がはじまる頃、
折田先生像が落書きされ、受験生の注目をあびるからです。
といっても今では本物の折田先生像はその場にないので、
折田先生像と称して、張りぼてのキャラクターを誰かが作って設置しているのです。

今年は「ポケットモンスター」シリーズの「タケシ」だそうです。
私は「タケシ」を知りません。それは、どうでもよいことですが。

折田先生とは、折田彦市のことで、京大の前身である第三高等学校の初代校長を勤めた人です。
三高の自由な学風を築いたと言われています。
折田先生の業績をたたえて作られた銅像が折田先生像です。

二十五年ほど前からその銅像に落書きがなされ、徐々にその行為がエスカレートしていきました。
それで今では銅像と台座を総合人間学部図書館の地下書庫に収納したそうです。

収納されたその銅像こそ、昭和二十五年に辻晋堂さんが制作したものです。
いろいろな関係があるものですね。

辻晋堂さんには『泥古庵雑記』という著作もあります。  


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2010年02月11日

先住 大寰昇堂大和尚

今日2月11日は、平勝寺先住、大寰昇堂大和尚の祥月命日です。

位牌を本堂正面に据え、ろうそくに火をともしました。

ちょうどそのとき、毎朝お参りにみえる伊藤さんが正面の戸を開けました。

「おっさん、今日は誰のお参り?」
「昇堂さんの命日」
「そうそう、昇堂さんが亡くなったのは紀元節の日だったなあ」
「昇堂さんは86で亡くなったが、おばさんは元気でいいね」
「5月が来ると97歳になる」
「毎日、お参りに来てね」と挨拶をして祥月命日のお経をあげかけました。

大寰昇堂大和尚、小川昇堂さんは昭和61年2月11日に亡くなられました。

私は昭和63年の夏から、ここ平勝寺の住職になったので実際の昇堂さんには会っていません。

綾渡の人たちから話を聞くばかりです。
それと昇堂さんが残した歌集『経嶺集』から当時のことを想像しています。

歌集「経嶺集」は昭和54年6月20日に発行されました。

早川幾忠氏が序を寄せています。

早川幾忠という人は「東京出身の歌人で、松倉米吉等と行路詩社結成、金子薫園に入門し「光」の編集同人となる。「高嶺」創刊主宰。歌集に『紫塵集』等。昭和58年(1983)歿、86才。」と検索したら出ていました。

装丁挿画は辻晋堂氏です。

辻晋堂さんは昇堂さんの親戚です。
鳥取県伯耆町出身の彫刻家で、戦後、京都に移り京都芸術大学の教授となりました。
平勝寺の観音さまの指をなおしてくださったことがあります。

早川氏も辻氏もともに昇堂さんのことを「小さくて痩せていて気の強い」老僧だったと言っています。

また辻氏は「和尚の風貌は、良寛の画像に似たところもあり、平勝寺に於ける和尚の生活は、五合庵の良寛を想わせるところがあるのである。」と述べています。

大寰昇堂大和尚を偲んで、歌集『経嶺集』から一首。

「薪作務も雪作務もなきわが寺の行粥はわが腹に丁度よし   昇堂」


  


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2010年01月26日

死への心構え

 小正月が明けぬうちに知人が事故で亡くなった。
明日のいのちは誰にも分からない。
そんな危ういいのちを私たちは生きている。
そうであるなら、いつ死が訪れてもよい覚悟が私にできているだろうか。

 できてはいない。

 私は死を恐れている。
なぜ死を恐れているのか。私の人生が今まで比較的平穏に過ぎてきたからかもしれない。
少ないとはいえ、私を理解してくれる人がいる。
私が死ぬということは、その人たちと永遠に別れなければならないことを意味している。
また逆に私にとって大切な人たちの死は、私との交流を永遠に閉ざしてしまう。
それを私は恐れているのだろう。

 日常の私は、生と死を正反対のものだと無自覚に思っている。
だから生きていさえすれば、交流は途絶えないと勝手に思い込んでいる。

 しかし、現に生きているこの世界は私の思い通りにならない。
死によって隔てられなくても交流できないことばかりである。
よかれと思って発した言葉によって相手を傷つけることがある。
逆に、正しいアドヴァイスを受けても心がかたくななときには、私はそれをはねつけてしまう。

 このように思い通りにならない生であっても、死よりましだと思っている私がいる。

 それほどまで絶やしたくないと思っているのは、私の何を絶やしたくないのか。
 生まれてから徐々に身につけた技能や知識だろうか。
いや違う。それはいつか使い物にならないことが明らかである。
では私が所有している物質的なものだろうか。
いや違う。それは手放し難いが、いつか失うことが分かっている。
それならば素っ裸になったこの肉体だろうか。
いや違う。幼時期の肉体が今どこにもないのに不安を感じていない。

 それでは、一体何を絶やしたくないと恐れているのか。

 私の頭のなかで記憶され時間列に沿って持続されてきたものを絶やしたくないと私は恐れている。
変わりづめに変わっているのにもかかわらず、幼時期から現在まで持続していると思い込んでいるその思いとの決別を恐れているとしか言いようがない。

 心配や悲しみ、苦しみや葛藤は確かにあった。
しかし悲しみを乗り越えた安らかさを知った。
苦しみが去った穏やかさも経験した。
そのような記憶を通して不安定な日常の中に安定を求めてきた。
その安定をこれから先にも持続したいと執着しているそのこと自体が死への覚悟をにぶらせている。

 記憶や安定に重きを置かず、いま出会っていることにまっすぐ出会う。
この稽古こそがいのちを輝かせることであり、私にとって死への心構えである。

(2010年1月22日(金) 矢作新報 リレー・エッセー202 掲載)
  


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2009年11月29日

満映映画が視聴可能に

 
 今まで知られていなかったものが初めて見つけ出されることがあります。

例えば先々月、中国のジュラ紀後期(約一億六千万年前)の地層から、長い風切り羽を持つ小型肉食恐竜の化石が見つかりました。

 また、行方不明になっていたものが見つかることもあります。

例えば昭和初期から行方がわからなかった「大澤本・源氏物語」が八十年ぶりに見つかりました。

 このようなニュースを聞くと私はわくわくします。
私たちの持っている先入観や固定概念が、発見された事実によって壊されるからです。

 今、私が一番興味を持っているのは満洲映画協会(満映)が製作した映画です。
戦前・戦中の人たちにとって満映の映画は見なれたものかもしれません。
しかし、戦後生まれの私は見たことがなかったのです。
正確に言えば見ることができませんでした。
なぜなら満映のフィルムが行方不明になっていたからです。

 満洲国の国策会社であった満映が作った映画は約千本ありました。
 その大量のフィルムが消えたのです。
中国や日本のどこかに眠っているかもしれません。
敗戦時に焼却されたかもしれません。
ところが一九八五年のペレストロイカ(再構築改革)によってソ連が崩壊し、満映フィルムが旧ソ連にあることが判明しました。

 ロシア国立映像資料館がモスクワ郊外にあります。
満映フィルムはそこに秘蔵されていました。

 十五年ほど前、日本のテンシャープという会社が満映フィルムをすべて買い付けようとロシア資料館と交渉しました。
しかし原板フィルムはロシアの法律で国外持ち出し禁止だったのでビデオ化して持ち帰ったのです。

 このような経緯で今、見ることができるフィルムは約百三十本、三十時間分です。
そのうち私は三十三本の映画を見ました。
それらの映画を見ることによって今まで持っていた先入観が壊れていきました。

 一般に映画は娯楽であると思われています。
しかし、映画には大きな教育力が秘められています。
それだから、映画の製作や上映が国家の統制下におかれた時、映画の果たす役割が大きく変化します。
戦時下の映画は社会の矛盾から国民の目をそらし、国家に協力させる気持ちを国民に植えつけていました。

 当時、勇ましい気分に酔って映画館を出た観客が後日「権力者やメディアに操られた」と言い訳したとしても、今を生きる私に同じ言い訳は通用しません。

 新たに発見された満映フィルムをはっきり見ることによって、操られる社会構造、流される社会構造を明らかにし、再び日本が戦争を起こさないようにすることが今に生きる者の責任であると思います。







上は満映作品のロゴです。

 満映の時事映画は、はじめは製作本数が少なく、「満映ニュース」と呼んでいました。
 一九四○年以降はスタッフが充実したので毎月三号づつ製作されたようです。

 満映の時事映画には「満映通信」(日本語)と「満映時報」(中国語)があります。
こども用の「こども満洲」や「協和満映時事報」もありました。
私が見た「協和満映時事報」は無声映画でしたが、中国文の字幕が出ていました。

 題材は満洲国の主な政治活動、皇帝の行事、観光、開拓の様子、祭り、学校の様子、産業、衛生などです。中でも日本の軍隊と満洲風景の紹介が突出していました。
  


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2009年11月07日

ゆずが実った


 我が家のゆずが今年、はじめて実りました。
 どなたにいただいたか忘れたくらい前に植えました。
 でも、小さな苗木のときに寒冷紗を掛けたことを覚えています。

 桃栗三年、柿八年、柚の大馬鹿十八年と言います。
 ことが成就するには、それなりの時間がかかるものだと思います。
  


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2009年09月26日

聞く耳が持てない

参不得(聞く耳が持てない)

 光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし。
師はあれどもわれ参不得なるうらみあり、参ぜんとするに師不得なるかなしみあり。
かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。

 これは正法眼蔵行持の巻の上巻、末尾に出ていることばです。

 『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は、私たち曹洞宗の開祖・道元禅師が著された書物です。

 道元禅師は一二二三年、二十四歳のとき栄西禅師の弟子・明全とともに博多から宋に渡りました。
十日あまりの航海ののち、道元禅師を乗せた船は現在の浙江省に着きました。
ところが、入国の手続きがうまく行かず道元禅師は三か月間、船上にとどまりました。
かえってそれが幸いとなりました。
『典座教訓(てんぞきょうくん)』に道元禅師自身が書きとめておられますが、阿育王山の老典座和尚と出会ったのです。
 阿育王山の老典座とは修行僧の食事をつかさどる役職の老僧です。
道元禅師が乗っていた船に日本の椎茸を買いに来たのです。

「あなたほどの方が何故、煩わしい食事係などされているのですか。坐禅をしたり、お経の研究などをされたほうがよいのではないですか」と道元禅師が老僧に質問しました。

 老典座は慈しみをもって答えました。

「お若い外国の客人よ、惜しいことにあなたは未だ修行のなんたるかがわかっておられない。文字のなんたるかもおわかりでないようですね」と。

後日談があるのですが、ともかくその場で道元禅師は冷や汗をかかれました。

 入国手続きが済み、宋の国に上陸した道元禅師は天童山景徳寺に赴いて無際了派禅師に参じ、足かけ二年の修行をしました。
無際了派禅師から、悟りを得た証である印可証明を授けましょうと言われましたが、道元禅師は自分の修行はまだまだこれからですと辞退されました。
そして遍歴の旅にでました。

 広利寺や万年寺など五山十刹を遍歴したのですが、正師にめぐり会えず失望しました。
失意のなか、もう日本へ帰ろうと考えていましたが、如浄禅師が天童山の住職になられたと聞き、再び天童山へ向かいました。

 如浄禅師に出会った瞬間に、この方こそ求めてやまなかった正師であることを直感し、天童山で大修行をしました。
その後、如浄禅師の法を継ぎ二十八歳のとき帰国しました。
ともに宋に渡った明全は景徳寺で病に倒れ亡くなっていました。
道元禅師は明全の遺骨を胸に抱いて肥後の河尻に帰ってきました。

 日本に帰った道元禅師は建仁寺に身を寄せましたが、比叡山からの迫害を受け、山城深草の安養院に移り住みました。
そこで『正法眼蔵』の第一巻となる「弁道話」を著しました。
道元禅師三十一歳のときです。

 建長五年(一二五三)一月、道元禅師は病床で『正法眼蔵』最後の巻となる「八大人覚」を著しました。このように道元禅師は生涯をかけて「弁道話」から「八大人覚」まで八十七巻に及ぶ大著を著しました。

 その『正法眼蔵』行持の巻に表題のことばがあります。

 光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし(時の経つのは矢よりも速く、いのちは露よりも脆く失われやすいものである。)

師はあれどもわれ参不得なるうらみあり(師匠はいるけれども、私が師匠の説示を受け止められない残念さがある。師匠は丁寧に説法してくださっているのに、私にそれを見聞きする眼や耳がそなわっておらず、的外れな理解をしている)

 参ぜんとするに師不得なるかなしみあり。かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり(またやっと師匠の説法を見聞きできる眼や耳がそなわって来たときには、師匠がいなくなってしまう。このようなことは、目の前で起きていることである)

 六十を過ぎたわたしには、時間の大切さと師匠(よき生き方を導いてくださるあらゆる人びと)の有難さをひしひしと感じます。
  


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2009年08月25日

澤木老師のことば




(この写真は『澤木興道老師のことば』櫛谷宗則編 大法輪閣 発行より)

七月中旬、櫛谷宗則さんが本を一冊くださいました。


「澤木興道老師のことば」という本です。
宗則さんは私の先輩で、すでに何冊も澤木老師について本を出版されています。
今回、出されたその本は百ページほどの小冊子ですが、澤木老師の珠玉のことばが詰まっていました。


 澤木老師は私の法曾祖父、すなわち「ひいおじいさん師匠」です。
澤木老師、内山老師のことばのひとことひとことが私の生きる指針であり、お守りです。


 澤木老師は明治十三年(一八八○)三重県津市に多田惣太郎の六番目の子として生まれました。
四歳で母を亡くし、七歳で父を亡くしました。
その後、澤木家の養子になりましたが、十七歳のとき出家を志し永平寺へ行きました。
十八歳のとき得度を受けました。
二十一歳の終わり兵役につくまで西有穆山禅師の高弟、笛岡凌雲方丈に随身しました。
日露戦争に従軍して負傷しました。
除隊後、大和法隆寺勧学院の佐伯定胤僧正について唯識教学を学びました。


 大正元年(三十三歳)、ほぼ仏教教学の概要を学びおえた老師は、勧学院を出て丘宗潭老師の会に参じるようになりました。
その後、駒澤大学教授・総持寺後堂など受けたすべての配役を用いて皆に只管打坐を勧めました。


 続けておられた全国巡錫を昭和三十八年に止め、京都の安泰寺で後進の指導に当たられました。
昭和四十年十二月二十一日、安泰寺の弟子たちに見守られるなか八十六歳で遷化されました。


 澤木老師が遷化されると内山老師がそのあとを継がれました。
昭和四十年から昭和五十年までの十年間、内山老師は安泰寺住職として坐禅指導されました。


 私が安泰寺に行ったとき内山老師はすでに引退され一年が過ぎていました。
私は内山老師のあとを継がれた渡部老師の弟子になりました。
私は渡部老師のもとで十年半修行し、ここ平勝寺へ来ました。


 今回、宗則さんが編集された澤木老師の最初のことばはつぎの通りです。

「おのれを抜きにすれば、人生すべてのことで解決しない問題はない」

深くこころに刻むべきことばだと思います。
私の日常はほとんど自己弁護と他者依存に終始していますので、このことばによって自戒しなければなりません。

 先回、鈴木正三のことばを紹介しました。
正三は苦悩の原因を「我が身がかわいいと思う念」であると看破しました。
我が身かわいさからあらゆる問題を引き起こしていると言ってもよいと思います。

 澤木老師の「おのれを抜きにすれば、すべての問題は解決する」のことばと鈴木正三のことばを私は同じ意味に受け取っています。

 私はお守りを持っています。お守りを持っていれば災難や苦しみに出会わないという訳ではありません。私が出会う災難も苦しみもそれら一切が私のいのちの糧となって、また歩んで行こうという力を与えてくださるのがお守りです。
その意味で私にとって澤木老師のことばはお守りです。


 さきほど澤木老師は十八歳のとき得度を受けて雲水になったと書きました。
どこで得度を受けたと思いますか。

 九州天草の宗心寺です。
宗心寺の沢田興法和尚について得度したのです。
澤木老師は天草で鈴木正三のことを知っておられました。
私は正三研究旅行で天草へ行ったとき宗心寺へ寄ってきました。

 いろんなご縁があるものです。
 
  


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2009年07月27日

郷土の偉人・鈴木正三

矢作新報   2009年7月24日  一道のリレー・エッセー掲載分  


 戦国の世も終わろうとする天正七年(一五七九)、鈴木正三は三河国足助庄則定で生まれた。いまの豊田市則定町である。
 
 正三は、則定城主・鈴木忠兵衛重次の長男として、三河武士の血を受けて誕生した。
天正十八年、父の重次は徳川家康に従って関東に移った。正三も従った。十二歳のときである。

 慶長五年(一六○○)関ヶ原の戦いが起きると、正三は徳川秀忠軍に属し、信州真田の戦いに加わった。
それが正三の初陣である。

 その後、大坂冬の陣、夏の陣に従軍し旗本の一員となった。
徳川秀忠に仕えて大番に列せられたが、四十二歳のとき武士の身分を捨てて出家した。
はじめ畿内で修行したが、三河に帰り山中の石ノ平で荒行をした。

 慶安元年(一六四八)多くの人びとの要請に応え江戸に出向いて唱導した。
正三の弟子はもとより、各層の人びとが正三に教えを請うた。
正三はいつも相手の立場に立って助言した。
正三のそれら言行を弟子である恵中が記録し、『驢鞍橋』という書物にまとめた。

 その『驢鞍橋』の中につぎのことばがある。

「地獄ヱモ天道ヱモ、只今ノ念ガ引イテユク也」(上巻の十)

 この言葉は、依頼心が強く責任転嫁ばかりしている私の日常を叱ってくれる言葉である。

 誰か私を心安らかな境地へ導いてくださいと頼んでみても、それは叶わぬ夢である。
私の心は私でしか安らかにできない。
釈尊は大安心を得られ、それに到達する道を教えられた。
しかし、その道を行くか行かないかは各自の決断にかかっている。
そして最後に私の心を安らかにするのは釈尊ではなく、おまえ自身であると正三は教えられた。

 日常において困難に出会ったり、思う通りに事が運ばなかったりすると、私はすぐに人の所為にする。
原因の大半が私にあるにもかかわらず、それにまっすぐ出会う勇気を持たないことが混乱に拍車を加えている。

 私たちの心はものをふたつに分ける機能を持っている。
順逆・得失・美醜・愛憎など、心は何んでもふたつに分けてしまう。
そういう心の働きは仕方のないことだが、分けられた一方に執着するところから争いが起こり、悩みが生まれる。

 なぜ一方に執着するのか。
正三は「我が身がかわいいと思う念」がそうさせていると指摘する。
我が身がかわいいという念が起きれば、その時々の条件にしたがって怒りたくもなるだろうし、欲もかこうし、愚痴も言ってしまうのである。

 地獄は地下深くにある世界ではない。
怒ったその場が地獄であり、地獄を出現させているのはおまえ自身だと正三は看破した。
  


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2009年07月09日

新鮮な野菜




きゅうりがこんなに立派に成長しました。
毎朝25本前後、収穫できます。
雨が降った翌日は、びっくりするほど取れます。







アジサイを手渡しできない遠くの皆さんには、
写真でアジサイの美しさをプレゼントいたします。  


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2009年05月23日

大袈裟すぎるキュウリの手



     大袈裟すぎるキュウリの手を今年も作ってしまいました。
     「作物の割に手が頑丈だね」と皆に笑われています。
      杭を打ち込み、竹を縛り、網を張りました。





キュウリさん、
どれほど伸びても大丈夫ですよ。

元気に大きくな~れ!












畑の隅にアスパラが一株、植えてあります。
もう何十年になりますが、
毎年、この時期アスパラをいただいています。


特別、肥料もあげていないし、
世話もしていません。


大地と雨と太陽のお陰で
毎朝、7~8本のアスパラを食べています。



   池のところにある「なんじゃもんじゃの木」2本、今が真っ盛りです。



 雪のような白い花です。  


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2009年05月22日

先日、田植えが終わりました




今朝の風景です。
代掻き、田植え、補植、除草剤まきまで済み、一段落ついたところです。



水、ぬるむ田んぼに移し植えられた早苗が気持ちよさそうに風に吹かれていました。  


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2009年04月11日

清明節を過ぎた頃




              清明節を過ぎた頃の景色です。

中国では今年から清明節が国民の祝日になったそうですね。(?)
墓に詣で、ご先祖さまの徳に思いを致すことは、万国共通です。








        平勝寺でも「レンギョウ」や「ゆきやなぎ」が満開です。

清明節といえば、杜牧の詩が思い出されます。

    清明      杜牧

 淸明時節雨紛紛  (淸明の時節  雨 紛紛)
 路上行人欲斷魂  (路上の行人  魂を斷たんと欲す)
 借問酒家何處有  (借問す  酒家 何處にか 有る)
 牧童遙指杏花村  (牧童 遙かに指す  杏花の村)

杜牧の詩もいいのですが、このごろ雨が降っていないので、ちょっと合わないですね。

今日(4月11日)、大切な人(享年94歳)の葬儀に参列しました。
家内も参列したいと言うので、共に山を下りました。
途中、梨の大木が何本もあり、枝には真っ白な花が咲いていました。

杜牧の詩より、今の私には蘇軾の詩のほうが、ぴったりときます。

    東欄梨花 (東欄の梨花)    蘇軾

 梨花淡白柳深青 (梨花は 淡白 柳は 深青)
 柳絮飛時花満城 (柳絮 飛ぶとき 花 城に満つ)
 惆悵東欄一株雪 (惆悵す 東欄 一株の雪)
 人生看得幾清明 (人生 看うるは いく清明)

人生あと何回、清明の季節を迎えられるのであろうか。 と蘇軾は歎じています。








与えられた大切な時間です。「たんぽぽ」や「つくし」を愛で、「踏青」を楽しみましょう。





  


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2009年03月15日

春在枝頭已十分 (春は枝頭に在って已に十分)




昨日(3月14日:土曜日)は綾渡の皆さんを代表して秋葉さんへおふだをもらいに行きました。
綾渡では毎年、春と秋に秋葉さんへお参りに行き、火事に遭わないよう祈願してきます。
くじ引きで誰と誰が何年のいつに行くと決まっており、昨日はTさんと私が当たっていました。
TさんとTさんの奥さん、私と家内の4名で雨の中を行ってきました。

そして今日は抜けるような青空です。
晴天のもと、境内地の掃除と畑作務をしました。
畑の中に梅の木があります。
上の写真がそれです。
梅の花を見ていたら、戴益の詩が浮かんできました。

終日尋春不見春 ( 終日 春を尋ねて春を見ず )
杖藜踏破幾重雲 ( 藜を杖つき 踏破す 幾重の雲 )
帰来試把梅梢看 ( 帰来 試みに梅梢を把って看れば )
春在枝頭已十分 ( 春は枝頭に在って 已に十分 )

中国・宋の詩人、戴益の詩です。


「終日 春を尋ねて春を見ず」
一日中 春を探しまわったが、とうとう春に出会うことがなかった。

「藜を杖つき 踏破す 幾重の雲」
あかざの杖をついてあちこちの山を踏み越え踏み越え春を探したが、見つからなかった。

「帰来 試みに梅梢を把って看れば」
帰って来て、ふと梅の枝を手に取って見ると

「春は枝頭に在って 已に十分」
なんだ探しまわっていた春はここにあるではないか。


私はこの詩を読むと何とも言えないおおらかな気持になります。
つねひごろ、あれが足りない、これが足りない、こうしてほしい、ああなればよいと
外ばかりに目を向け、ウロウロ探しまわっている自分を見るにつけ
「春は枝頭に在って 已に十分」
という結句は完結した安らぎを私に与えてくれます。

何を拾い集めて所有しようと言うのか。
他と比較してしか自分を定義できないから所有物の多寡を競うのである。
地位、財産、名誉、能力、肉体など生まれてから身につけたものの多寡を競い、
多く持っていると言って得意になったり、
少ないと言って不満顔をしているのが、私の日常ではないか。

「春は枝頭に在って 已に十分」という完結した安らぎに腰をすえ、
「愚図らない自己」へ澄浄することが、
いのちを最も輝かす生き方ではないでしょうか。

よき友がおり、よき先生に恵まれている
本当にそれで十分である

  


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2009年03月07日

平勝寺の梅




この数日は、雨が降ったり曇ったりしていました。
今日、久しぶりに晴天に恵まれました。
3月1日、初午大般若法要を勤めた後、やっと本堂・観音堂の大掃除ができました。
清浄になった観音堂から駐車場を眺めると
紅梅・白梅・ロウバイが美しく咲いていました。
上の写真がそれです。
青空と紅梅がとても鮮やかでした。
境内地のクロッカスは、長い期間にわたって私たちを楽しませてくれています。


  


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2009年01月31日

豊かに生きるとは?

 




 豊かに生きるとは、どういうことなのだろう?

 お寺の池や防火水槽に厚い氷が張った。
子どもたちは自分の背丈より長い丸太ん棒を持ち出し、ドーンドンと氷に打ち付けていた。
私は「もう止め!危ないから止め止め」と声をかけたが、子どもたちは氷割り遊びを止めようとしなかった。
男の子も女の子も満面の笑みを浮かべて氷を割っている。
私が見守って居ればそれほど危なくないと判断し、遊ばせておいた。

 私は名古屋で育ち、この子らほど山や川、野や池に親しむことなく過ごしてしまった。
この子らは身近な自然の中で生き生きと遊んでいる。

 男の子は魚を釣り、ヘボを飼っている。
魚を釣るためのミミズは落葉の下から見つけだす。
釣った魚は塩焼きにして昼には食べてしまう。
ヘボの餌はカエル。そのカエルも蛇も手掴みができる。
その上、毒蛇には手を出さないという智慧を持っている。

 女の子はお寺に来るまでの道すがら花を摘む。
その花を輪ゴムではなく、野にある蔓できゅっと縛って持ってきてくれる。
木いちごやグミの実を摘んで食べる。
食べたら腹痛になる植物を見分けることもできる。

 自然の中で生きているのは人だけではない。
あらゆる生命を育んでいる自然、この子らは知らず知らずのうちにそうした自然と深くかかわって過ごしている。
またこの子らは、おとなが主催する地区の伝承儀礼にも参加する。

 春になるとおとなたちは豊かな実りを願い、お鍬さまにお参りし、太鼓を叩いて田畑を廻る。
夏には亡くなった人々を偲んで念仏を唱え盆踊りをする。
二百十日には台風が来ませんようにと集まってお経をあげる。
秋には収穫祭の神事をおこない、ヘボ祭にはヘボ供養を忘れない。

 このような祭事を通して子どもたちはいのちのあり方を学んでいる。
おとなたちが自然の恵みに感謝して畏敬の念を忘れずにいることが子どもに対する最良の教育だと思う。

 ところが現代産業社会において、おとなたちは自然と直にかかわる営みを避けてきた。
経済的に利益になる面のみで自然を利用してきた。
そして自然と最も親しい農業や林業さえ工業化の対象としてしまった。
このような社会を豊かな社会と言えるだろうか。
自然から奪えるものを奪い尽くして自分のものにすることが豊かになったということだろうか。

 子どもたちは遊びの天才である。
氷を見ても、霜柱を見ても遊び道具にしてしまう。
遊びとは、利害得失を忘れ、現在を楽しみ、今に生きることだと思う。

 豊かに生きるとはどういうことなのか。今こそ元から問いなおす時である。

 自然と人がつながり、人と人がつながり、自らの汗を流して働き、時には夢中になって遊び、自然の移ろいに沿って暮らす人々がここにいる。
そんな人たちのなかに答えがあるのかもしれない。


  


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2008年12月03日

お薬師さんの薬瓶





 足助の各地区には、それぞれ薬師堂や地蔵堂があります。綾渡にもあります。

 綾渡では毎年十一月にお薬師さんとお地蔵さんにお参りします。医療機関が現代ほど発達していなかった時、病気にかかった先人たちは、病気平癒をお薬師さんに真剣に願いました。不妊治療がなかった時、元気な子どもが授かりますようにとお地蔵さんに心から願いました。綾渡には、お薬師さん以外にタバコを断って願掛けをする「ドモ婆さんの墓」や松カサを供えて願掛けをする「カサ神さま」もあります。それほど病気は大敵でした。

 昔の人々が恐れていた病気を今では病院で治療することができます。
 昔、不治の病であったものが今では完治できます。そのように医学を発展させ病気を克服してきました。それは素晴らしいことです。

 しかし、限りあるいのちを生きている私たちはどんなに医学が発展しようともいつかは老い、病にかかって死んでいかなければなりません。なにもマイナス思考を推奨しているのではありません。発達した医学の恩恵をこうむり過ぎ、私たちは自分のいのちについてあまりにも無頓着になっていないでしょうか。お薬師さんやお地蔵さんにお参りすることを通して改めて自分のいのちについて考えてみました。

 玄奘訳「薬師瑠璃光如来本願功徳経」によれば、薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主で、菩薩の時に大願を発して仏になったと書かれています。

 その大願とは、衆生の病を治し、災いを消し、衣食などを満足せしめるというものです。現在この部分については、医療や行政がその役割を果たしています。
 このお経の中で大切なところは、薬師如来が持っている薬瓶の中に何が入っているかということです。
 それは、無明の病を直す法薬が入っているとされています。
 体が患うだけが病気ではありません。「もっと欲しい、もっと欲しい」と欲望にブレーキをかけられないことは病気ではないでしょうか。
 それを治す薬を私たちはお薬師さんからいただかなくてはなりません。

 数限りない欲望のうち、ひとつだけ例をあげてみます。テレビを点けると、どこかのチャンネルで必ずグルメ番組を放映しています。貴重な食材と手間のかかった調味料を使用し、過度に視聴者の食欲を刺激しています。私は本能としての食欲を否定するものではありません。しかし「もっとおいしいもの、もっとおいしいもの」と極端にそれだけを追求している姿は異常だと思います。

 私の師匠は二十数年前、イタリアのキリスト教会に招聘され、彼の地で坐禅を行じていました。イタリアに足かけ七年おられました。 
 ある日、師匠が浜松の聖隷病院に入院されているとの連絡を受け、急いで病院へ行きました。師匠に面会し、事情を聞きました。
 師匠は「前立腺ガンの末期症状で手術は不可能、余命三ヶ月」と言われました。師匠以上に私がショックを受けました。平成六年のことでした。
 その後、いろいろな経過がありましたが、師匠は食事療法だけで十四年間、元気に過ごされています。その証拠に、先月弟子十名ほどが集まり、師匠の提唱を聞きました。その折り「お前は今、なにをしているのか。誰に何を伝えているのか」と一人ひとりに鋭く問いかけ、明け方四時まで席を立たれませんでした。師匠は弟子の誰よりも元気でした。

 食事療法について師匠はつぎのように言われました。 
 「主食の玄米と野菜の煮付け、海草、時どき骨ごと食べられる魚と貝、このくらいの料理で循環する『偉大なワンパターン』を貫き通すこと。大切なことは身体の養生と心の養生をともにおこなうこと。」と。
 「心の養生とはどのようなことですか。」
 「釈尊が言われた少欲。そして畏(おそれる)ことが必要だ。畏れると慎む心が生まれる。人間の欲望を畏れ慎むことが養生である」と言われました。

 私は師匠の教えが薬師経に述べられている法薬だと思いました。
 あとはこの私がその薬を服すだけです。
  


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2008年10月03日

第五十五回聖観世音菩薩  ご開帳 無事円満成就

 九月十三日(土)から十五日(月)までの三日間、晴天に恵まれご開帳法要を無事に勤めることができましたこと、心より感謝申し上げます。

 ご加担くださいました近隣のご寺院方、寄附協力くださいました篤志の人々、祈祷を申し込まれた檀信徒の皆さん、ご開帳を慶讃し稚児行列に参加されたお子さんと保護者さん、観音様に参拝された人々など、有縁無縁すべての人の協力があったからこそ、ご開帳法要が円満に成就しました。

 とりわけ当地区三十二戸の全員が一丸となり、それぞれの持ち場を十全に勤めてくださったことが成功の基でした。

 私は観音堂でひたすら大般若経を転読し、第五七八巻の理趣分を聲高に読んでいただけです。したがいまして皆さんの活躍そのものを見ることはできませんでした。しかし毎夕おこなわれたミーティング時に各部門の報告を聞き、何度も頭の下がる思いでした。

 一気に殺到した参拝者を混乱無く誘導した受付係の皆さんの活躍を聞きました。当日申込者もパソコンで出力しようと計画していましたが、無理だと分かったときに臨機応変に方法を変えられたことに感心しました。申込み方法が違って苦情を訴えた人に、にこやかにそしてきちんと説明してくださいました。最終的には、約千三百人の申込者がありました。「椿立家族ものがたり」の販売と観音旗の受付、到来帳への記載も担当していただきました。境内地全体に聞こえるアナウンスも最高でした。

 受付から観音堂への案内は、若手のご寺院さんとうまく連携できたと報告を聞いて安心しました。

 ご祈祷を終えた人々は、仮設された観音堂西側の回廊を通って奉安殿に登って行きます。国の重要文化財である観音様をじっくり参拝しようとする人々で身動きがとれません。観音様にも参拝者にも不測の事態が発生しないように配慮くださった係の人の活躍ぶりを聞きました。

 参拝し終えた人々は、本堂で記念品を受け取ります。受付内容により一人ひとり別々の記念品を渡さなければなりません。そのような複雑な仕事をひとつの間違いもなくおこなっていただきました。またお稚児さんのお土産約七百個も渡していただきました。

 台所の係も大忙しでおこなっていただきました。毎日、四百名分の昼食計画でしたが、参拝者の流れをみて適宜に分量を調節してくださったことが無駄をはぶきました。夕方ミーティング時に明日の材料の買い物に走り廻ってくださいました。外台所で活躍していた皆さんの段取りのよさには感心しました。

 駐車場係の皆さん、本当にご苦労さまでした。とりわけ十四日のお稚児さん行列のときは、係の一人ひとりの自主的判断がぴたっと一致しました。その判断が有機的に結びつき、統一がとれたので七百台以上の車が事故もなく駐車できました。

 稚児係も大活躍していただきました。八時から受付でしたが、朝六時には続々と駐車場へ親子が到着しました。稚児衣装業者との折衝をきびしくしていただいたので、欠席者があきらかになりました。その結果、後日、欠席者に返金する作業がスムースにいきました。

 二千人以上の親子が「椿の里」周辺に集合し、出発するまでの二時間を混乱なく過ごせるように配慮くださった稚児係の皆さんに感謝申し上げます。
 
 三日間の法要を盛大にするため境内地を整備し、何百本の観音旗を立て、草刈りをし、駐車場を作り、側溝の蓋を木で作って設置し、回廊や雨よけの屋根を作り、放送や電気設備を準備し、仮設トイレやテントを設営し、その他、数えきれない作業をしていただきました。

 女性の方々には「五色布お守り」作りからプランターの花つくり、伽藍の清掃まで献身的に勤めていただきました。
 
 会計係の皆さんには、それぞれの部門からあがってくる収支を迅速かつ正確に処理していただきました。いつも夜遅くまで電卓を叩いている姿が今も目に浮かびます。

 データ入力をしてくださった皆さん、ご苦労さまでした。十七年前のご開帳のときは私ひとりで入力しました。今回、本当に助かりました。また私の思う通りの出力方法を実現していただきました。

 勧募係の皆さんと私は一番密接に連絡を取ったかもしれません。パソコンのデータと原簿を照らし合わせる作業を何日もおこないました。

 実行委員会の幹部の人々には、警察や役場との連絡を密にしていただきました。その結果、豊田市長さんをはじめ多くの文化財関係者が来山されました。

 天も観音様に味方しました。閉扉諷経が終わって扉を閉め鍵をガチャンと掛けたときにポツポツ雨が降ってきました。それまで雨を降らせませんでした。

 無事に法要を終えることができましたことを重ねて感謝申し上げます。ありがとうございました。

 後処理が残っています。今後、鋭意努力します。
  


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2008年09月11日

ご開帳直前の平勝寺(2)

お寺の横の駐車場です。
多くの人々が赤い観音旗を奉納されました。


お稚児さんの歩く道も綺麗になりました。
14日は秋晴れのよい天気でありますように。
  


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2008年09月06日

観音様、十七年ぶりの御開帳

  
 あと一週間で第五十五回聖観世音菩薩の御開帳法要です。

 去年の九月、正式にご開帳委員会が発足しました。
それ以来、委員長さんを中心に当地区の全員が協力して準備を進めてきました。
冬に女性の皆さんが五色布を編み今は袋に詰める作業をされています。
男のひとたちには、六月、七月、八月の日曜日を返上して準備作業をしていただきました。
本当にご苦労さまでした。

 皆さんに協力願った最初の作業は池の掃除でした。
まず鯉を避難させてから、池の水を抜いて重機で泥を撤去しました。
その後、観音旗を立てるのぼり立ての製作と設置、樹木の剪定、側溝の整備、トイレの水洗化、境内地の草刈り、裏山の整備、駐車場の準備、観音堂回廊の修理、観音堂内の荘厳、収蔵庫の手すりのペンキ塗りなどあらゆる作業をしていただきました。

 八月二十三日(土)には、ご開帳全体会議が開かれました。
綾渡と大蔵連の人たち五十数名が出席しました。
ご開帳全体の流れを私が説明した後、各部会に別れ、細部にわたって打合せしていただきました。

 ご開帳準備期間中において十七年前のときと一番違ったことは、コンピュータを使いこなせる人が増えたことです。
今回は綾渡の八名がコンピュータ要員になってくださいました。
約千百名の祈祷申込者、七百名の稚児申込者の受付をコンピュータを使って迅速におこなうつもりです。

 台所関係は約三十名のスタッフで三日間の食事を準備します。
余りすぎてもいけないし、足りなくてもいけないと気を遣って計画を立てておられました。

 お札渡し関係は、手順の確認だけしました。
記念品の一部がまだ到着しておらず、具体的な作業ができなかったからです。

 稚児関係は、お土産の決定と発注、当日の流れを検討しました。

 整備関係は、来山者の駐車方法の検討と会場設営について話し合いされました。
今後、行わなければならない作業は、観音堂へ上り下りするスロープの設置、ご開帳当日が雨天になった場合の対策、駐車場の準備、仮設トイレの設置、受付テントの設営などです。

 総務関係は、お守りやお洗米の準備、受付名簿を調えることが残っています。

 また実行委員長さん、副委員長さんには、来賓の方々に案内状を持って挨拶に行ってもらいます。

 ご開帳の日程は「平勝寺へようこそ」のページに書いてあります。  


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2008年08月02日

綾渡の子らに綾渡のエトスを

 七月に入り、夜念仏の練習が始まった。夜八時、各家から集まった男性は平勝寺境内地に半円形に並ぶ。音頭取りは鉦を三つ鳴らした後、「光明遍照十方世界」とよく通る高い声で節をつけて詠いはじめる。呼吸を合わせ「念仏衆生摂取不捨」と側の人々が唱和する。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀」暗い境内地に清らかな声がゆっくりと染み渡っていく。

 二十年前、平勝寺の住職になって初めて夜念仏を聞いたとき私は感動のあまり涙を流してしまった。

 平勝寺は曹洞宗の寺院であり、坐禅が宗旨である。道元禅師の坐禅を慕い雲水生活を十一年間過ごした私は念仏を唱えたことがなかった。ひとつの行でさえ満足に修行できない私は念仏を唱えるべきではないとまで思っていた。

 綾渡の夜念仏は、そんな私の思いをいとも簡単に打ち砕いた。亡き人を偲び、今、私に与えられているいのちの尊さを実感させてくれる力が夜念仏にあった。  

 そのとき坐禅と念仏は別々のものではないと思った。念仏が声でする坐禅であるなら、坐禅は体全体でする念仏であった。

 それ以来、夜念仏が私の心にしっかり定着した。

 その昔、夜念仏は綾渡だけのものではなかった。矢作川上流の旧串原村や旧山岡町、西三河の北西部にある旧旭町でも広くおこなわれていた。なぜそのようなことが言えるのかといえば、各地に夜念仏供養塔があるからである。夜念仏供養塔は夜念仏がおこなわれていた証拠である。夜念仏の起源はあきらかでない。しかし足助地区新盛にある夜念仏供養塔に寛政六年(一七九四)と年号が刻まれているので、少なくとも二百数十年の歴史があることがわかる。

 各地の夜念仏は徐々におこなわれなくなった。上切山や葛沢では昭和三十年代初めまでおこなわれていたが、やめてしまった。そして綾渡だけが夜念仏を続けている。私たちが夜念仏と盆踊りをやめれば、日本からひとつの民俗文化が消えることになる。それゆえ国は「綾渡の夜念仏と盆踊」を重要無形民俗文化財に指定した。

 綾渡は全部で二十八戸、人口は百名ほどである。これだけの人数で国の重要無形文化財を伝承していくのは大変なことである。何度も存続の危機に見舞われた。しかし、そのたびに綾渡の人々は先人の歩んだ道を思い返し踏みとどまった。

 毎土曜日、夜念仏と盆踊りの練習が境内地でおこなわれるが、今年は大きな変化が二つあった。

 ひとつはお嫁さんがふたり、踊りの輪に加わったことである。彼女たちの足の運び、手の振りがとても初々しく思えた。

 そしてもうひとつは、子どもたちが親に連れられて参加するようになったことである。参加したと言っても、子どもたちは歓声をあげて走り廻っていただけである。私はそれでよいと思っている。夜念仏や踊りの場に身を置いているだけで、この子らに綾渡のエトスが伝わっていくであろう。

 いのちのつながりを歌と踊りで後世に伝えることこそ綾渡に住まう者の勤めであると思った。


(注 エトスとは、ある民族や社会集団にゆきわたっている道徳的な習慣・雰囲気をいう)

  


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