2011年06月30日

平勝寺四世・大覚隆堂大和尚


 隣寺の龍宝寺で法要が勤まりました。
 法要を終えると龍宝寺さんが一冊の古い本を持って来られました。
倉を整理していて見つけたとのことでした。大正五年に発行された『曹洞宗名鑑』という本でした。

 平勝寺と龍宝寺に共通の大覚隆堂大和尚の経歴が分かりませんかと私が以前に質問しました。
龍宝寺さんがそれを覚えておられ、『曹洞宗名鑑』に隆堂さんの経歴が載っているのを見つけ、私に教えてくださいました。

 『曹洞宗名鑑』によりますと、平勝寺四世・大覚隆堂大和尚の経歴は以下の通りです。

 師は明治三年三月、尾張の東春日井郡阪下村大字神屋に生まれた。
父を弥平といい、母を津儀といった。四男一女あって師はその三男であった。

 師が六歳のとき、菩提寺曹洞宗観音寺の梅峰に就いて習字や読書の教授を受けた。
観音寺梅峰について調査すると以下のことが分かった。
この観音寺は現在の春日井市神屋町字上郷一二八にある正受山観音寺のことであり、梅峰とは第六世・洞嶺梅峰大和尚のことであった。

 その梅峰の勧めによって師は東加茂郡賀茂村龍宝寺倉地覚忍の弟子となった。
覚忍とは龍宝寺三世・大智覚忍大和尚のことである。

 師が九歳のとき明治十二年四月八日、覚忍大和尚によって得度を受け正式な僧侶となった。
そして覚忍大和尚の身辺に侍すること六年、十四歳になったとき岐阜県武儀郡関町香積寺の樺山琢牛の会下に安居した。

 翌、明治十八年二月より足助町香積寺の河村鴻川に随身した。
師が十五歳のときである。この鴻川とは、平勝寺法地開山・舟山鴻川大和尚のことである。

 翌、明治十九年冬に西加茂郡小原村嶺雲寺の高木賢牛のもとで立職した。
十六歳である。立職とは、首座になることである。
嶺雲寺は小原の大草にあり、賢牛とは、第十九世・牧奘賢牛大和尚のことであった。

 十七歳になった明治二十年二月に愛知県第一號曹洞宗専門支校に入学した。
二十歳になったとき永平寺に瑞世し、明治二十四年の冬、平勝寺の住職になった。師は二十一歳だった。
二年ほど平勝寺の住職を勤め、明治二十六年五月に、師匠である大智覚忍大和尚の跡を継いで龍宝寺の住職となった。

 その後、大鷲院の小寺黙音(二十一世・豪潮黙音)、香積寺の河村鴻川(第三十一世・舟山鴻川)、養源寺の丘宗潭(安泰寺の開山・大潤宗潭)に師事して親しく鉗鎚を受けた。

 明治四十四年以降、すなわち四十一歳以降は大本山布教師を命ぜられ各地を巡教した。

 平勝寺の位牌によると、大正七年八月十七日に遷化せられた。
以上のことが分かりました。



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