2011年11月05日

地元高校の授業を参観して





 今は止めてしまいましたが、小学生を対象に平勝寺で書道を十二、三年教えました。
書道の合い間にサッカーをしたり、レスリングをして遊びました。
皆、明るく元気な子どもたちでした。

 その子どもたちが次々と高校生になり、順繰りに卒業していきました。
就職した子、進学した子、それぞれ巣立っていきました。
進んだ道は違っても、その子なりの目標に向かって頑張っていると聞けば、こちらまでうれしくなります。

 あと数年、高校生になる教え子がいます。
皆、どんな高校生活を送るのだろう。とても関心があります。

 十月中旬、地元高校で或る会議に出席しました。
ちょうど公開授業日でした。見知った子どもたちが受ける授業を私は見たいと思いました。
それで一年生から三年生までの授業をそれぞれ五分程度、参観しました。

 最初の教室は三年生に現代文を教えていました。
黒板に「正岡子規」「悟り」「平気」と書かれていました。
生死の境をさまよう病床で子規が「如何なる場合にも平気で生きて居る事」が悟りであると自覚したところを講義されるのでしょう。

 つぎの教室は政治経済を教えていました。
黒板に企業の形態が列記されていました。
株式会社と書かれた下に「所有と経営の分離」と先生が板書し、株式会社の特質を説明するところでした。

 つぎの教室は古典を教えていました。
項羽と劉邦の名前が書かれ、先生は秦の都、咸陽の説明をしていました。
漢文「鴻門之会」の授業でしょう。

 つぎの教室は数学を教えていました。
中心C(a ,b),半径rの円の方程式 (x-a)2+(y-b)2=r2 を書き、どのようにすればこの方程式が導きだされるのかを解説していました。

 どの教室でも先生は大きな声ではっきりと熱心に講義されていました。
大人になった私もあらゆる場面で人から教えを受ける機会はあります。
しかし今、参観した教室の先生のように自信に満ち、明確に、そして丁寧に教えを受ける機会はめったにありません。

 私の高校時代の先生方もきっと一所懸命教えてくださったに違いありません。
それにもかかわらず、受け取る私がいい加減であったことを恥ずかしく思っています。

 人類が蓄積してきた知識を順序立て集中して習うことができるのは学生の特権です。
また、学生時代しかそのような時間を持つことができません。
しかし私がそうであったように学生時代の真っ只中では、その特権を自覚できないようです。

 二度と戻らない貴重な時間を過ごし、教えを受ける稀有な機会に出合っているのですが、その大切さに気づかない。
人のことを言う前にこの私が今、与えられた時間に感謝しているか、学ぶことに喜びを感じているか、と反省させられる授業参観でした。



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