2010年05月03日

咲くべき今にただ咲いている


 四月五日は二十四節気のひとつ清明の日でした。
この日を中国では清明節と呼び、人びとは先祖の墓参りをします。
中国において現在、清明節当日は法定祝日になっています。
それで今年は四月三日の土曜日から五日まで三連休でした。
多くの人がピクニック(踏青)を兼ねて郊外へ墓参りに行きます。
その結果、大渋滞が発生したとニュースで伝えていました。

 私たち日本人は清明に墓参りをする習慣はありません。
清明の直前の節気すなわち春分のときに春彼岸として墓参りをします。
墓参りの習慣は違いますが、清明という名にふさわしい季節は中国でも日本でも同じです。

 平勝寺周辺では、四月初旬に桜が満開になり、レンギョウやユキヤナギが咲きました。
池の鯉はゆったりと泳ぎだしました。
 天地は明るく、清らかです。

 私は清明という言葉自体が大好きです。
 宋代に書かれた『歳時広記』に「清明とは、もの清浄明潔に生ずるをいう」とあります。
 そして『歳時百問』ではそれを解釈して「万物生長のとき、みな清潔にして明浄なり。故にこれを清明という」とあります。
 
 実際、芽ぐんだ小さな葉の清潔さはこのうえもありません。
この時期、それぞれの草木はそれぞれの花を咲かせています。
レンギョウは黄色い花を、ユキヤナギは白い花を咲かせています。
私にとってこれら花の姿ほど清らかに見えるものはありません。

 私の日常はこの花々の清らかさから程遠いものです。
なぜ程遠くなるのでしょう。
今、私がなすべきことを黙々となしていないからです。

 ひとつの行為をなすと自らその成果を求め、他にもその成果を認めてもらいたいという心が動きます。
他から評価されないと自信を喪失し、なした行為すら悔やんでしまいます。
逆に他から思わぬ賞賛を受けたときには、私にそぐわないと思いつつも有頂天になってしまいます。

このようにひとつの行為をそのものとして完結させず、常に他と兼ね合い、くらべながらなしています。

 私にひきかえ花々は一切、他との兼ね合いをしていません。
レンギョウは「白い花を咲かせたい」とユキヤナギを羨んでいません。
ただレンギョウの黄色い花を精一杯咲かせているだけです。
「こんなに綺麗に咲いてるよ、見て見て」と結果の見返りを期待していません。
誰が見ていようが見ていまいが、咲くべき今にただ咲いているだけです。

 このように他との兼ね合いをしない清らかさと清明の明るさは同質のものと思います。
中国ではくもりのない澄みきった鏡を明鏡といいます。
明鏡はものの姿をはっきり写しますが、写した跡を留めでいません。
初夏に向かってレンギョウが花を散らす時、レンギョウは精一杯花を散らすだけで盛時の跡を留めていません。

 清らかさと明るさを合わせもつこの清明の季節に、私は花々が発する「清新の気」を私に移したいと願っています。

(矢作新報に掲載したものを加筆訂正)



Posted by 一道 at 23:08│Comments(0)
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咲くべき今にただ咲いている
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