2009年07月27日

郷土の偉人・鈴木正三

矢作新報   2009年7月24日  一道のリレー・エッセー掲載分  


 戦国の世も終わろうとする天正七年(一五七九)、鈴木正三は三河国足助庄則定で生まれた。いまの豊田市則定町である。
 
 正三は、則定城主・鈴木忠兵衛重次の長男として、三河武士の血を受けて誕生した。
天正十八年、父の重次は徳川家康に従って関東に移った。正三も従った。十二歳のときである。

 慶長五年(一六○○)関ヶ原の戦いが起きると、正三は徳川秀忠軍に属し、信州真田の戦いに加わった。
それが正三の初陣である。

 その後、大坂冬の陣、夏の陣に従軍し旗本の一員となった。
徳川秀忠に仕えて大番に列せられたが、四十二歳のとき武士の身分を捨てて出家した。
はじめ畿内で修行したが、三河に帰り山中の石ノ平で荒行をした。

 慶安元年(一六四八)多くの人びとの要請に応え江戸に出向いて唱導した。
正三の弟子はもとより、各層の人びとが正三に教えを請うた。
正三はいつも相手の立場に立って助言した。
正三のそれら言行を弟子である恵中が記録し、『驢鞍橋』という書物にまとめた。

 その『驢鞍橋』の中につぎのことばがある。

「地獄ヱモ天道ヱモ、只今ノ念ガ引イテユク也」(上巻の十)

 この言葉は、依頼心が強く責任転嫁ばかりしている私の日常を叱ってくれる言葉である。

 誰か私を心安らかな境地へ導いてくださいと頼んでみても、それは叶わぬ夢である。
私の心は私でしか安らかにできない。
釈尊は大安心を得られ、それに到達する道を教えられた。
しかし、その道を行くか行かないかは各自の決断にかかっている。
そして最後に私の心を安らかにするのは釈尊ではなく、おまえ自身であると正三は教えられた。

 日常において困難に出会ったり、思う通りに事が運ばなかったりすると、私はすぐに人の所為にする。
原因の大半が私にあるにもかかわらず、それにまっすぐ出会う勇気を持たないことが混乱に拍車を加えている。

 私たちの心はものをふたつに分ける機能を持っている。
順逆・得失・美醜・愛憎など、心は何んでもふたつに分けてしまう。
そういう心の働きは仕方のないことだが、分けられた一方に執着するところから争いが起こり、悩みが生まれる。

 なぜ一方に執着するのか。
正三は「我が身がかわいいと思う念」がそうさせていると指摘する。
我が身がかわいいという念が起きれば、その時々の条件にしたがって怒りたくもなるだろうし、欲もかこうし、愚痴も言ってしまうのである。

 地獄は地下深くにある世界ではない。
怒ったその場が地獄であり、地獄を出現させているのはおまえ自身だと正三は看破した。
  


Posted by 一道 at 22:00Comments(0)