2009年03月15日

春在枝頭已十分 (春は枝頭に在って已に十分)




昨日(3月14日:土曜日)は綾渡の皆さんを代表して秋葉さんへおふだをもらいに行きました。
綾渡では毎年、春と秋に秋葉さんへお参りに行き、火事に遭わないよう祈願してきます。
くじ引きで誰と誰が何年のいつに行くと決まっており、昨日はTさんと私が当たっていました。
TさんとTさんの奥さん、私と家内の4名で雨の中を行ってきました。

そして今日は抜けるような青空です。
晴天のもと、境内地の掃除と畑作務をしました。
畑の中に梅の木があります。
上の写真がそれです。
梅の花を見ていたら、戴益の詩が浮かんできました。

終日尋春不見春 ( 終日 春を尋ねて春を見ず )
杖藜踏破幾重雲 ( 藜を杖つき 踏破す 幾重の雲 )
帰来試把梅梢看 ( 帰来 試みに梅梢を把って看れば )
春在枝頭已十分 ( 春は枝頭に在って 已に十分 )

中国・宋の詩人、戴益の詩です。


「終日 春を尋ねて春を見ず」
一日中 春を探しまわったが、とうとう春に出会うことがなかった。

「藜を杖つき 踏破す 幾重の雲」
あかざの杖をついてあちこちの山を踏み越え踏み越え春を探したが、見つからなかった。

「帰来 試みに梅梢を把って看れば」
帰って来て、ふと梅の枝を手に取って見ると

「春は枝頭に在って 已に十分」
なんだ探しまわっていた春はここにあるではないか。


私はこの詩を読むと何とも言えないおおらかな気持になります。
つねひごろ、あれが足りない、これが足りない、こうしてほしい、ああなればよいと
外ばかりに目を向け、ウロウロ探しまわっている自分を見るにつけ
「春は枝頭に在って 已に十分」
という結句は完結した安らぎを私に与えてくれます。

何を拾い集めて所有しようと言うのか。
他と比較してしか自分を定義できないから所有物の多寡を競うのである。
地位、財産、名誉、能力、肉体など生まれてから身につけたものの多寡を競い、
多く持っていると言って得意になったり、
少ないと言って不満顔をしているのが、私の日常ではないか。

「春は枝頭に在って 已に十分」という完結した安らぎに腰をすえ、
「愚図らない自己」へ澄浄することが、
いのちを最も輝かす生き方ではないでしょうか。

よき友がおり、よき先生に恵まれている
本当にそれで十分である




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